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あいさつ
表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
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2020.10.30 Fri

愛が何かを知らない人間は
執着を愛と勘違いし、所有したがる。
恋愛関係における嫉妬は愛するがゆえと勘違いする。
それは愛とは全く関係のない別の問題なのです。
「愛」という言葉がますます安っぽくなる。
(執着に凝り固まっている人は)
見返りを求めない”無条件の愛”なんて言葉は想像もできないでしょうね。
Krishnamurti@krishnamurtibot
所有があるところに、愛はありえない。所有とは愛の破壊なのです。
| クリシュナムルティ
| 00:40
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2020.10.29 Thu
Krishnamurti@krishnamurtibot
あるがままのものの持つ真理を悟ろうとする者にとっては、信念は全的に避けて通らねばならない危険物である。
信念からは決して真実は生まれない。信念は制約的条件づけの結果であり、恐怖の産物であり、あるいは人に慰藉を与える内部的、外部的な権威から生まれる。
善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。
皆さんは、絶対に、いかなる理想、概念、信念ももってはならないのです。なぜなら、これらはすべて人間を滅ぼしてきただけで、問題の解決にはならなかったからです。
| クリシュナムルティ
| 00:51
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2020.10.20 Tue

環境によって変わる人もいれば
全く変わらない人もいる。
私はどちらかというと変わらないタイプ。
一匹オオカミ的タイプだから。
村八分の言葉があるように
日本人は環境によって
変わる人の方が多いんじゃないだろうか。
みんなと同じが好きな人がほとんどだから。
「自分自身を変えなければいけない」
自分自身をどう変えるのか、
変えるのも自分自身だから、
その基準は何でしょうか。
Krishnamurti@krishnamurtibot
「私」と「他の人」との関係が社会を作っている以上、根本的に「私自身」を変えなければ、社会の本質的機能の変換もありえないのだ。
私たちが悟らねばならないのは、自分が環境によって条件付けられているだけではなく、私たちが他でもないその環境だということ 自分がそれと分離したものではないということです。私たちの思考と反応は、私たちがその一部であるところの社会が私たちに強いた価値観によって、条件付けられているのです
条件付けられていない環境とは?
| クリシュナムルティ
| 00:06
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2020.10.16 Fri
執着を愛と勘違いしている人の多いこと。
Krishnamurti@krishnamurtibot
執着のあるところに愛はなく、依存があるところには恐怖がある。
嫉妬深い人は執着心が強いし、
いつも恐怖を抱えているから、
対象者の生命エネルギーを奪い続ける。
| クリシュナムルティ
| 01:47
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2020.10.13 Tue
Krishnamurti@krishnamurtibot
私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。
| クリシュナムルティ
| 00:34
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2020.10.12 Mon

自分自身を理解できない人が、
他者を理解できるはずがない、
世界を理解できるはずがない。
そういうタイプの人は決まって
愛や平和のような言葉を軽々しく口にする。
Krishnamurti@krishnamurtibot
人は自分自身を理解することなしには世界の情況を変化させることに着手することはできません。もしあなたがそれを見るなら、その時即座にあなたの内部に、完全な革命が起こるのです。
| クリシュナムルティ
| 01:00
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2020.09.26 Sat
Krishnamurti@krishnamurtibot
正しい生活とは、社会のモラルに従うことではなく、羨望、貪欲、権力の追求など反感や憎悪を生む一切のものから自由になることである。これらからの自由は、意思的活動ではなく自己認識を通じてこれらに気づくことによって生まれる。
新生活様式がいかに陳腐で馬鹿げたものかわかるでしょう。
奴隷へと突き進む道とも知らず、「新しい」に飛びつく人々。
| クリシュナムルティ
| 20:29
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2020.09.14 Mon
Krishnamurti@krishnamurtibot
あなたが何も知らない向こう岸、理知にたけた思考によっては補足できない別の次元から歩き始めてみたまえ。
| クリシュナムルティ
| 00:16
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2020.09.13 Sun
Krishnamurti@krishnamurtibot
注意力とは明澄さであり、あらゆる思考をはさまない澄んだ直覚に他ならない。思考は常に死んだ過去に根ざしているから、決してそのような明澄さをもたらすことはできない。それゆえ思考は無明の闇の中の行為なのである。そしてこのことに気づくことが注意力の働きである。
| クリシュナムルティ
| 00:43
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2020.07.14 Tue
クリシュナムルティ「瞑想は経験を継続したり拡張したりすることではない。経験には必ずその目撃者がおり、彼は常に過去に縛られている。それに対して瞑想は、あらゆる経験に終止符を打つことに他ならない全的な無行為である。経験的行為は過去に根ざしており、常に時間に縛られている。そこからは混乱の原因となるような行為が生まれるだけである。瞑想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。そのような行為は外部からの働きかけや問いかけに対する反応ではなく、働きかけと一体であり、それゆえ二元性がない。瞑想は経験の堆積から絶えず意識的、無意識的に浄化を行うことであり、1日のうちのある時期に限って行われるものではない。それは朝から夜まで、見る者によらずに絶えず”ひたすら見る”ことである。それゆえ、日々の生活と瞑想、宗教生活と世俗の生活との間に区別はない。そのような区別は見るものが時間に縛られているときにだけ生じる。そしてそのような区別の中に混乱や不幸が生まれるーーそれが我々の社会の実情なのである。」
| クリシュナムルティ
| 23:48
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