http://pds.exblog.jp/pds/1/200810/13/62/b0086362_15573465.jpg',320,240,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>私と日常で接した人は知っているけれど基本的に怒らない、喧嘩しない。
喧嘩しないように心がけているのではなくそうならないだけ。
私は20歳頃になるまで一度も怒ったり喧嘩したことがないと母が言っていた。
でも数年か10年に一度くらい凄くお腹の底から腹が立つときがある。
そういう時に祝詞するときがあるけれど地震が起きるのでしないことにした。
パレスチナの悲惨な子供たちの映像をみたときは凄く怒ってしまった。
今回のようなことはそれに該当しない。
ブログや掲示板やメールの文章はきつく受け止められやすいので気をつけている。
でもそれでも伝わらないときは残念だけどきつく書くしかない。
きつく書かないと伝わらない相手がいることを知って勉強になるけれど悲しくもある。
基本的に何でも意見は書けるようにしたいのでしばらくみてたけど
読者の迷惑になる、場が荒れると思ってコメント拒否しました。
しかし、最低限のマナーも知らない奇妙な大人たちが多すぎる。
自分の妄執・我執の押し付けばかりで周囲のことをまったく気にしない。
私が人をみるとき一番大切にしているもの、「おもいやり」、これがない。
この国は大丈夫なんだろうかと思ってしまう。
あと少し腹が立つときはすぐに感情が出なくて、翌日か数日後というのが多い。
”だから喧嘩にならないんだよ”と鍼の先生に言われたことがある。
例のブログが最先端で私のブログが時代遅れだとコメントした
マリファナ擁護派もいて、本当に世界って人口の数だけあるんだなって再認識。
世界ってこうなんですよ。
一体、人類は何処へ向かうのだろう。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200810/13/62/b0086362_15575893.jpg',320,240,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>さて、昨日、その中の一人がマリファナ吸引を擁護するために
神楽で使用される麻(たぶん麻縄?)のサイトを提示してきました。
こういったわけがわからないコメントをみたとき、一瞬で読む気がしません。
それでも返事を書かなきゃと思い理解しようとしてもなか読めない。
体が嫌がっているような感じといえばいいでしょうか。
他者を理解しようとするとき相手の波動に合わせなくてはいけなくなる。
そうするとよほどしっかりしてないと通常はこちらの波動がぶれます。
不安定な人にはこういった波動がぶれるようなことはお勧めしません。
相手がオカシナ人だとその影響を受けるからです。
それを無意識で防いでいるからか、コメントの文字が更に読めなくなります。
投稿者の文章が下手なのもあるでしょうがいくら読んでもわけがわからない。
サイト内の引用でも投稿者を経たものは質が変化します。
それでも立場上読まざるを得なく、がんばって理解しようと勤めます。
でもオカシナ投稿でも社会勉強にはなります。
こんな人がいるんだって。
姿はみえなくても普段まったく縁がない人と接するわけだから。
最初は、コメント欄を間違ってるのじゃないのって、
次に麻の文字をみて、あ、そうか、大麻を擁護してるつもりなの?って、
でも神楽の麻とマリファナ吸引のどこが関係するのかわけがわからないよ、
と思って結局無視。
これがまた実際に会ってみると良い人だったりするんだろうな。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200810/13/62/b0086362_15585218.jpg',320,240,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>でもせっかくだら、神楽を題材にちょっと気分転換。
そのサイトを眺めて思ったのは、
地域に密着した神事、祭りの類はいったい何・何処から派生したのだろうと思った。
(普段から時々、神道、天皇に関する神事の派生を考えています。)
この神楽はいわゆる「古事記」などの神話を元にしているもの。
先祖代々、受け継がれてきたもの(途中ですりかえられたものでも)
生まれてきたときから普通にあるもの、普通に行われているもの、
こういったものを疑う人はまずいないでしょう。、
何故疑わないかというと、先祖、神=善というイメージがあるからでしょう。
そして”なんとなくやってしまうという癖”みたいなものがあるんじゃないかな。
日本という国で日常に深く根ざした一連のものたち、
日本を善として特別な国だとしてみれば、
「古事記」や「日本書紀」を正しいものとしてみれば、
神事や祭りはすべて正しいもの、厳粛なもの、清浄なものになる。
しかし、日本という国を特別視扱いしなければ、
またまったく別のモノがみえてくるのではないだろうか。
そうなると、日本という国がどうやってできたか調べなくていけなくなる。
詳しく調べるには時間もないし面倒だし、疑いだしたらキリがない。
でも大雑把でも知ることは必要なんじゃないかな。
何度も書いたようにシュメールあたりにいくのは間違いない。
今までいろんな考察をしてきてそれが全部つながってくる中、
日常的に頭から善だと信じ込んでやっている多くのこと、
本当はそういったものこそ見直すべきかも知れないなとふと思った。
例の瞑想のように、マントラを意味も無い言葉(本当はインドの神々の名)と言われ
疑いもせず毎回唱えていることと同じじゃないだろうか。
ネガティブになりすぎてもいけないので、ここで発想を変えてみることに。
たとえば少なそうだけど、穢れたものでも清浄な人が行えばきれいになったり、
こちらは多そうだけど、清浄なものを穢れた人が行えば汚れたり、
清浄なものを清浄な人が行えば益々清浄になり、
穢れたものを穢れた人が行えば益々穢れる。
そしてまったく思いもしない別な方向にいくこともあったり、
これが一番面白くもあり怖くもある。
これらは人との関わりの日常生活でも多いので想像できるでしょう。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200810/13/62/b0086362_1559944.jpg',320,240,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>「神楽」「カグラ」。
「神楽」の「楽」だけ取り出してみると、「ラク」は「グラ」の逆。
本当は楽はラと読むんだろうけれど、なんだか意味深。
「グラ」と打ち込んだつもりが「グル」に変換されてどこまで続くのタントラ(笑
そういえばグルって”グルになるのグルだ”。
普通に「神楽」の文字を解釈すれば、「神様を楽しませる」ための舞の奉納。
でもどこの神様を楽しませてるんだろう。
日本?朝鮮半島?中国?インド?ユダヤ?シュメール?
神社仏閣のお参りの仕方は誰が決めたの?
一体、誰に向かって挨拶してるの?
キリスト教やユダヤ教やイスラムはどうしてあんなに決まりごとがあるの?
神、神々は国によってまちまち、さまざま
無神論も
神々=アヌンナキ説、アヌンナキの人類創造説
神を想像する時、人はどうして空を見上げるの?
神社仏閣が苦手な人でもいざとなれば手を合わせるのは何故?
考えすぎるのも良くないけれど…
言われたまま日常的にやってること、何があるだろう
言われなくてもやってしまうのは何故だろう
何に従ってるんだろう
人間の奥深くに何がインプットされているんだろう
★写真の猫は顔見知り、
犬は初対面で写真撮ろうとするとじゃれついてきて大変だった。