これで最後です。まるで宿題のように書き写ししてしまいました。(笑
http://pds.exblog.jp/pds/1/200811/16/62/b0086362_1411337.jpg',400,300,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>これも昨日の空
天日槍の遺跡と地名
先ほどの、韓国に向かい、ここは甚吉(いとよ)きところというのは、北九州の伊都国、魏志倭人伝に出てくる伊都国です。伊都国は北九州、今は福岡の前原町になっています。ここにおりたつわけです。
ふつう高千穂といいますと、高千穂の峰論争があります。・・・・・これは古事記に書いてあるとおりに、われわれは素直に信じてよろしい。
というのは、宮崎県の高千穂は太平洋に向かっていて、韓国に向かっていないんです。・・・韓国に向かい、甚吉きところというのは、いま言った伊都国であったところの前原町です。そこに志摩半島というのがあって、・・・ここに「志摩」が出てくるということに注意してください。・・・
それでは、加耶から彼らがやってきた。天日槍とニニギノミコトがダブるという話を先ほどしましたが、天日槍はどこからやってきたかというと、ぼくは安羅とか多羅とかいうところから来たと思っています。
・・・要するに、天日槍を象徴とするひとびとがやってきた。加耶のなかの多羅と安耶がみんな、これは国を挙げてやってきたものであると、ぼくは考えております。・・・たとえば、いま「古事記」に出ている神功皇后のことを言いましたけれども、神功皇后の本当の名前は息長帯比売(おきながのたらしひめ)です。帯という字を書いて「たらし」という。「たらし」というのを多羅の姫と解釈したらどうですか。そうすると、天日槍の孫だということになる。
・・・では、北九州のそこに天日槍の遺跡はあるのかと考えられる方がいるかもしれません。たくさんあるのです。・・・
・・・有名な都市に唐津があります。これも「大日本地名辞書」をみると、もともとは「韓津」です。・・・それは、地名にしてもまず韓泊がある。大宰府の観音寺の資材帳には加夜郷、それから、・・・韓良(から)であったところなんです。韓良と書いて、からと読ませる。なぜこうなったかといいますと、和銅年間に地名を二字にしろと命じられたわけです。・・・だから、和歌山県は紀伊国、本当は紀国です。・・・これは朝鮮でも古代、そうやって地名を二字にしました。ちょうど同じような時期に朝鮮でも行っております。
いま日本で何々郡と言うでしょう。もとは「評」という字を書かせて「こおり」と読ませたんです。新羅がこれだったんです。新羅はこういう字を使っていて、後に郡に変える。そして、日本でも郡に変えたんです。だから、朝鮮語では今でも「コオル」というんです。郡というのも全く同じです。・・・中曽根さんも韓国に行って、晩餐会でそんなことをい言ってますね。あの人はぼくの本をだいぶ読んでいるんだそうです。・・・
今でも地名としては、志摩半島の近くに芥屋(けや)というところがあります。この芥屋は昔は鶏氷という字を書いて、それで「けや」と読ませた。つまり、加耶です。もっとおもしろいのは、糸島半島にかけて、そこは肥沃な前原平野なんです。そこの真ん中にポコッと一つの山がある。非常に秀麗な山です。これは志摩富士ともいい、また、筑紫小富士ともいっている山ですが、これが加也山なんです。・・・かつて韓良郷だったところに加也山があり、芥屋ということが今でもある。そこから、ここでは貝塚と書いてケエヅカと読むんだそうです。・・・
そればかりか、・・・背振山地というんです。・・・何か思い出しませんか。セフリ、ソフル山地です。それから、その横に早良(さわら)郡というのがあります。これはどちらもソフルのなまったものだそうです。・・・
しかも、古い糸島郡の教育会が編集した糸島郡史がありまして、それを読むとこう書いてあります。「・・・天日槍はまず新羅往来の要律(?)たる伊(都?)国を領有し・・・更に但馬に移りて但馬家の祖となりしなるべし。(久米邦武著「日本古代史に拠る)」久米邦武氏曰く「筑前雷山に存する神籠石は其(天日槍を指す)築きし古?なるべし。・・・」と。
この久米邦武という人は東大の先生だったんですが、東大を追われたんです。なぜ追われたかといいますと、「神道は祭天の古俗なり」、つまり、神社は天を祭る古俗だと、そういうことを言ったため、それが問題となりまして、帝国大学を追放されて、早稲田へ移った人なんです。天を祭ることは朝鮮の太陽神を祭るということでしょう。あるいは高句麗でもそうですが、天を祭る、要するに、日本の神道も朝鮮のそれだと言ったものだから、昔のことですから、問題になったわけです。・・・この人に著書がたくさんあります。
・・・この神籠(こうご)石というのは明治時代から論争になりまして、最近やっと決着がつきましたが、これは古代朝鮮式山城なんです。石でもって城壁をめぐらせているんです。それのいちばん大きなものが・・・岡山県の鬼の城です。それから、久留米に高良神社があります。ここにも古代朝鮮山城があって、いまなおあちこちで見つかっているんです。ぼくも行ってみました。それがソフル山地にもあるんです。
そこに雷山があるんですが、そこに雷山神籠石というのがありまして、今でも貯水池みたいなのがあって、頑丈な水門跡の石塁がそのまま残っています。これはいわゆる逃げ込み城としてつくられたもので・・・敵が攻めてくると、その人民ごとに城に閉じこもるんです。そこに食料を置いて。水は絶対条件です。・・・
・・・それから、その南の肥前山中、肥前というのは佐賀県になります。・・・とある墓家というのは横穴石室です。
「・・・長野県社宇美八幡宮祭神六座の内気比大神あり」というのがまた問題なんです。
「越前国官幣大社気比神宮の祭神と同一の神にして、天日槍を祀れるなり」とありますが、・・・福井県の敦賀にまいりますと、そこに気比神宮があります。これは戦争中は官幣大社でした。この気比神宮と同一の神である。つまり、その天日槍を祀れるなりというのが北九州の伊(都?)国にもあるということです。
気比神宮と息長氏
・・・敦賀のほうへまいります。気比神宮の祭神をイササワケノミコトといいます。天日槍をイササワケノミコトとして祭っているんです。・・・今庄に行きますと、新羅神社があります。・・・いろいろと変えられておりますけれども、ここは新羅神社そのものです。そのものが二つ、この今庄という町にあるんです。
それから、敦賀にも信露貴彦(しろきひこ)神社があったり、敦賀半島の先のほうに白木浦というところがあります。ここは問題になっている原子力発電があるところです。丹生というところまでバスで行きますと、そこから山越えになります。山を歩いたら、足元からキジが飛び出すんです。そういうところでした。その峠を上って下を見ますと、絶壁なんです。でも、眼下に、本当に直下に集落があるんです。そこは十五、六件しかありません。・・・
そういうところで、毎年7月15日になりますと、外に出ている人が帰ってきて、お祭りを盛大にやる神社がある。それが新羅神社です。しかも、おもしろいのは、この集落ばかりではなくて、日本には出雲などあちこちにありますけれども、ここではニワトリを食わないんです。卵も食べないんです。今はおそらく食べていると思うんですが・・・
今でも出雲へ行きますと、三保関、ここも卵を食べません。・・・
どうしてそうなったか。新羅は昔、金の卵から国王が生まれたということで、金氏の国王がずっと続くわけです。その卵と関係あるニワトリがとまっていたところを鶏林といって、今でも慶州へ行きますと、鶏林という遺跡があります。それで、国号を鶏林にしたこともあるんです。・・・ところが、いま朝鮮でニワトリを食べないところはないです。・・・だけど、日本では食べないところが、たくさん残っています。新潟に行きますと、ニワトリ祭り、鶏神社まであります。
・・・ニワトリを食べないというのはどうしてか。皆さんはブラジルの勝ち組というのをご存知でしょう。外に出ると非常にナショナリズムになるんです。非常に国粋的になるんです。沖縄県人というのを、皆さんは、在日朝鮮人ほどではないとしても、差別しているでしょう。差別された人間です。棄民だったんです。捨てたんですよ。それで、日本が勝ったとばかり信じている。沖縄に来て、そこに米軍がいたりしても、なおかつ信じる。信じるということはしようがないです。どうしようもないです。
・・・それから、もう一つは外へ出ると気前がよくなる。また、大きくなる。銅剣やなんかを見ましても、九州から広形銅剣というのが出土していますが、韓国では細形なんです。こっちへ来ると、広くなるんです。古墳なんかも、向こうは小さいです。こっちはばかでかいでしょう。・・・
気比神宮のある敦賀の地は、近江における息長(おきなが)氏族、これは大きな氏族で、日本の天皇家とも密接な関係がある氏族であります。・・・もと東大の教授で・・・斉藤忠さんに「わが国における帰化人文化の痕跡」という論文があります。
・・・ここに言う・・・の須恵器とか垂飾付耳飾、これは皆古代朝鮮から直行したものです。そこから出たものをもって、わが国における貴下人文化と、斉藤さんは規定しているわけです。それを全国にわたって書いてあります。・・・
そして、いまいった山津照神社古墳と関係ある息長氏の中に息長宿禰というのがいまして、この息長宿禰を祭る神社がいま言った近江町の山津照神社なんです。ここは昔、安耶の安那、すなわち安那郷だったところで、それがのちに息長村となり、今は町村合併で近江町になってますけれども、この境内にある古墳が山津照神社古墳で、つまり、神社はその古墳を祭ったものだったわけです。
ぼくは、神社はもと古墳を祭るものであるという話をしたと思いますけれども、この息長宿禰が神功皇后のお父さんということになっています。そして、この息長氏族というのは敦賀を聖地とし、そこにある気比神宮を守護神としているんです。ということは、天日槍を象徴とした渡来系集団、新羅、加耶系渡来人集団から息長氏が出たということです。
・・・近江町というところは非常におもしろい。ここは、百済が滅びてからも、「日本書紀」なんかみますと、 たくさんの人が百済からやってくるんです。おそらく、「日本書紀」に出ている分だけでも三千人を越すでしょう。・・・
七世紀の後半、660年に百済が滅びている。・・・白村江の戦いがあるわけです。日本は援軍を出して敗れる。しかも三万人の救援軍を日本から出したというんです。そのころ、日本の全人口は5、6百万です。そのなかの三万というのは大変です。なぜ滅びる百済に救援軍を出す必要があったのか。何故出したか。
それを、干渉戦だという人がいます。あれは日本が悪いんだろうと、そうではありません。それは間違いである。救援案を出したのは、一体だということです。そのことは「日本書紀」の天智天皇段をみてください。・・・
つづいて、沙宅紹明は法務大臣です。・・・鬼室集斯というのは・・・文部大臣です。これは達率(ダルジョル)という百済の官位第二位の高官でしたが、それが日本にやって来ては、またそういう高官になっている。こういうふうに五、六十人の者にずっと叙位をするんです。・・・つまり、橋の実はそれぞれ異なった枝になっているけれども、それをとって、玉として緒に通すときは、同じ一つの緒に通す。つまり、一体だったというわけです。
このように近江町は百済と一体だったんです。そうでなければ戦いはしません。三万人も近くも出して、白村江で敗れて、しかも、なおかつ何千人という人間を運んで、近江の国、蒲生郡に移し、あるいは神前の郡に移し、そして、二千人に三年間も政府が食わせて、東国に移すというようなことはしないでしょう。そういうことがちゃんと「日本書紀」に書いてあるんです。それだけでも大変な数ですけれども、しかも近江ははじめは、天日槍を象徴とする新羅系渡来人集団の中心地だったところです。
各地に残る新羅神社
それからまた、大津市には新羅神社があります。有名な三井寺をご存知でしょう。もと園城寺です。その三井寺に行きますと、新羅神社があるんです。・・・
源義家の弟の源義光を新羅三郎義光というでしょう。新羅三郎義光はその新羅神社で元服したんです。義光がここで元服したというのは。この神社を氏神としていた氏子だったからですが、近江には佐々木源氏というのがあります。この佐々木源氏の祖神を祭ったのが新羅神社です。それがそうしてわかるのか、ぼくはあとになってわかりました。
浜松市の江ノ島というところに新羅大明神という神社があります。これは小笠原源太夫というのがここへ移ってきて、そこで埋め立て工事をやって、江ノ島というところを開いたんです。・・・・・
話は山梨のほうへ飛びますけれども、武田信玄です。これは甲斐源氏、または新羅源氏とも言ったんです。これは新羅三郎義光から出ているんです。・・・
話をまた近江の戻しますが、近江の高島町に稲荷山古墳というのがあります。・・・これははっきりと新羅と書いてます。
この古墳は誰の墳墓かといいますと、息長氏族の枝族の彦主人王の墳墓だということになっております。この彦主人王は越前の三国から辰姫を迎えた。その間に子が生まれた。そして、彦主人王が死んでしまったので、辰姫はその子を抱いて、福井県の三国に帰って育てた。それが男大?王、すなわち継体天皇です。
このように、天日槍集団から出たもの、それまで語るとなるときりがありません。・・・今日は触れませんでしたが、古代日本最大の民族で、宇佐八幡や稲荷神社などを祭った秦氏というのも天日槍集団から出たものであり、・・・また谷川健一氏の「白鳥伝説」をみると、・・・物部氏なども、天日槍集団から出たものとあります。
これまでのぼくの話を聞いて、信州の言葉でいえば、腑に落ちるのが一つか二つあれば、まあまあとぼくは思います。どうも長い時間ありがとうございました。(1983年5月26日)