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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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無敵の剣


今朝の夢

前方の足元あたりに四角い何か乗り物らしきものがある
その向こうに黄色い色のプラスチック?で出来たような剣が二本見える
勾玉を長く引き伸ばしたような、不思議な形の剣

私の右後ろには二人の男性がいる

私が腕を前方に伸ばすと
(確か背後の男性にそうしなさいと言われた)

剣が宙を移動し、私のそばまでやってきて手の中にピタッと収まった
”無敵の剣”という感覚があった

剣は全部で四本あるらしい
あと残りの二本の剣を入れて合計四本で
目の前にある乗り物の車輪にもなるらしい
それで自由自在に瞬時に空間を移動できるみたい

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神社は朝鮮半島から来たの? その3


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続きです。

古代史はおもしろい

神社についてさきほど分社ということを言いましたが、これがあるために日本の歴史がたいへんわかりよくなっているのです。高柳光寿さんだったと思いますが、古代、中世は神社は独立国だったと言ってます。共同体の中心は神社だったのです。昔は国家はないんです。国家もなければ、民族もない。だから日本人もなければ朝鮮人もなかったのです。ただの人間です。彼らが朝鮮から渡来してきて、一つの集落を作ります。そうするとまず精神的よりどころとして、首長が死ぬと、それを祭って神社をつくる。その神社を中心に共同体の集落が動く。

しかも神社は精神的なよりどころであったばかりか、兵馬の権をも持ったのです。祭祀権を持つということは、兵場の権をも行使したのです。だから共同体の独立国だったのです。朝鮮では今でも長男が祭祀権を持ちます。・・・特に日本の昔は祭祀権を持つ者が兵馬の権をも行使したわけです。

そうやって神社の集落、共同体が大きくなります。大きくなると分家が行われます。今は土地を買って移るためには、一坪百万円だ、東京なら千万円だみたいなことですが、そのころはそうではない。行って住めば、それで良かったのです。別に地主も何もなかった。行って縄を張って、ここだと言えばいい。そこに神社を勧請して、住めばいい。そういう具合にしたものですから、神社があちこちに広がっていきます。

日本の皇国史観の歴史によると、神功皇后ということで紹介しましたが、古代日本は任那日本府を置いて四世紀から六世紀に渡って朝鮮半島南部を支配したということになっています。

たとえばローマがイギリスを支配した。これは文献がなくても遺物・遺跡でわかります。では、日本の大和朝廷が二百年にわたって南部朝鮮に任那日本府を置いて支配したのならば、ぼくの言う「朝鮮の中の日本文化」がなくてはならない。ところがこれは一つもありません。

1910年に朝鮮を併合して、いわゆる「日韓併合」が行われたときに、日本の一流の学者と大きな予算をつぎ込んで、任那日本府を探そうというので一生懸命探したのですが、なかったのです。

しかも日本は近代になって36年間朝鮮を植民地支配しました。これは間違いのない事実です。また秀吉の話も事実です。36年間に何かを残した。行ったら、残っていました。刺身という言葉です。これは朝鮮語になっています。下駄という言葉も残っています。あるいは弁当という言葉もあります。わずか36年でこういう具合に残しています。二百年ならもっと残しているはずですが、ない。

・・・・・だからといって、ここで注意して欲しいのは、僕は朝鮮人と日本人を同じものだと言おうとしているのではない。違ったものです。人種と民族は別物だということです。

人種と民族を混同するところから、誤解が起こりやすいのです。よく人種的差別をするなと言います。朝鮮人を差別するなということですが、これは民族差別であって、人種差別ではない。人種はかわらないのです。同じ顔でしょう。ぼくが道を歩いていても、日本人か朝鮮人かわかりません。つまり人種は別ではない。しかし、民族は別です。

民族というのは、初めから民族があったわけではない。・・・・・

ですから奈良時代まではおそらく高句麗系、新羅系、百済系というのが明白にあって、対立していたと思うんです。それが千数百年の間になくなった。

つまり民族というものは、その風土における歴史の積み重ねによって形成されるものである。・・・だから民族というのは近代的な概念です。国家、国境、民族というものと、人種は別物です。

民族的にはわれわれははっきり違います。・・・初めに大和朝廷ありき、というのはうそっぱちです。朝鮮もそうです。朝鮮民族も徐々に歴史的に形成されたものです。これをわれわれは理解する必要がある。それ以前は人間時代というのでしょうか。まったくの平等といいますか、入国管理庁もなければ、パスポートもなかった。自由に行ったり来たりしていた。そういうことをわれわれは知っておく必要がある。そういう目でわれわれは現代をも見る必要があるのではないか。


聴衆の質問に答えて

・・・ぼくの証拠は日本の学者が書いたもの以外にあげないことにしているんです。そういう本を書いても、すべて日本の学者以外のものは引用しません。韓国の学者も北朝鮮の学者も研究しています。ずいぶんあるのですが、それらは引用しないことにしています。日本の学者、文学者の書いたものを読んで、実地にそこへ行って見て、ということをやっています。

・・・金多遂というのが新羅から従者をたくさん連れてやってきます。「日本書紀」に書いてありますが、きらびやかにやって来ます。これをつまり人質だと言ってるわけです。大変な人質があったものです。従者を連れてきた人質なんて、考えられません。それが後の天武ではないかという人がいますが、ぼくはちょっと違うと思います。

・・・伊勢神宮は金沢庄三郎氏がはっきり書いているように、伊勢とか宇佐のイ、ウというのは接頭語です。勢はソです。伊勢に行くと韓神山というのがあって、そこに韓神神社があります。今は小さい祠になっていますが、伊勢神宮はそこから始まるのです。

その韓神山は禰宜を祭った山です。禰宜というのは朝鮮語のネク、魂という意味です。そういうことで韓神山が伊勢にあるというのは、面白いでしょう。

もう一つ言語ですが、日本で一番権威がある地名辞典は富山房から出ている吉田東伍博士の「大日本地名辞書」だと思いますが・・・

去年になってやっと総論を開いてみると、「地名原義論」というのですが、こうあります。「上古には、日本語と韓国は、同語同言の人民たり、各自にその法俗を異にしたるにせよ、語言の根源においては、理論上まったく同一に帰せられる。この際の異動の論は、もっぱら転訛の程度いかんというにあらん。すなわち転訛の差異が、両国の差異を示すにすぎざりけん。もしそれ、両国ともに古言を保守して、転訛なき名詞のあるあらば、古今同名というを得ん。されば、本邦古言の考証は、多く韓語によりて資益せらる」と、つまり古代は同じ言葉だったというのです。

ぼくはこれ以前から疑問に思ったのは、天智朝(近江朝)に数千人の人々が百済からくるでしょう。百済が滅びてから、高官がたくさん入ってきて、文部大臣兼国立大総長みたいなものになる。国務大臣にもなる。それらが、一体どういう言葉をしゃべったかということです。通訳付きの大臣というのは、どう考えてもおかしい。

その時代まではほとんどは同じ言葉ではなかったかと思います。なぜならばドイツで最近、労働者の語(?)を調査した論文が発表されましたが、なんと5、6百語です。そうすると古代は百もあれば用が足りた。

・・・・・もう一つ、面白いことがあるんですが、朝鮮カボチャと日本カボチャは違うんです。ぼくは数年前にやっと朝鮮カボチャの種を手に入れて庭に植えたんです。いいカボチャができまして、非常においしく食べたのです。さらにそのカボチャの種をとって、翌年植えたら、ちょっと違うカボチャができました。三年目、四年目になると日本カボチャになってしまった(笑)これにはびっくりしました。

人間も変わるのです。・・・・・そういう具合に二代、三代ですでに顔が変わります。カボチャばかりではない(笑)。そのように言葉もどんどん変わるものだということです。(1982年5月17日)

つづく

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神社は朝鮮半島から来たの? その2


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                        旧「Earth Blue & Moon Cafe」


金達寿さんの本の書き写しの続きです。


関東に見る高句麗・新羅・百済系

先ほど秦氏の八幡様が全国にたくさん広がったと言いましたが、神社が広がるということは、それを祭った氏子が広がるということになります。その例として、話は関東にやってきます。

今朝の読売新聞を開いてみますと、一面に浅草三社祭に二百八十五万人、・・・という記事が載っています。この三社祭の祭神がまさか朝鮮渡来系とは、皆さん思ってないでしょう。・・・

どうしてそんなことを言うかというと、浅草寺は百済仏です。まあ仏教は公然と仏教伝来がありますし、浅草寺の秘仏が百済仏であり、長野善光寺もそれであるということは、かなり広く知られています。

それよりも三社の祭神がどうして朝鮮渡来の神様なのか。「東京都の歴史散歩」という文庫本を見るとよくわかります。・・・・・日本書紀には685年から760年の間に六回、渡来してきた百済、新羅、高句麗の僧俗男女多数を武蔵野国に置く記事がある。とくに716年には高麗郡、また758年には新羅郡が新設される。・・・」

つまり浅草三社の神様というのは、浅草寺の仏像が漁をしたときに網に引っ掛かったという伝説になっていますが、その人間は土師直中知、檜前浜成、同竹成である。・・・

土師中知という土師氏も百済系です。今の羽曳野市、「近つ飛鳥」の河内のほうの飛鳥に行きますと飛鳥戸神社というのがあって、百済の混伎王(こんきおう)を祭る神社があります。みな百済系の渡来人ですが、これを祭るのが浅草三社です。・・・これを知ったら、二百八十五万人も行かないかも知れません(笑)。

そして高麗郡は池袋からすぐです。・・・まず飯能ですが、ハンナラという言葉のなまったものだそうです。・・・ナラとは朝鮮語で国ということだと言いましたね。

奈良もそうです。

飯能はハンナラ、韓国ということだそうです。・・・今でも高麗という駅があります。・・・・・高麗神社は今でも栄えていますが、戦時中から非常に栄えた神社です。・・・高麗神社におまいりすると、戦地に行っても弾に当たらないというんです。・・・そればかりか、どういうわけか偉い人がたくさんおまいりする。何とかの宮様とか、ある新聞にでていましたが、検事が事件が迷宮入りになると高麗神社におまいりする(笑)。

この高麗神社の宮司は今でも高麗氏で五十九代目です。そして分社が武蔵の国に約百三十ほど広がっています。あるところでは白髭神社になっており、あるところでは大宮神社、あるところでは広瀬神社というふうに名を変えていますが、高麗神社の分社です。

ここで一つの問題は白髭神社です。白髭神社は全国至るところにあります。早い話が浅草に白髭橋、白髭神社があります。浅草の白髭神社は由緒書きを見ますと、近江の白髭神社を勧請したものです。

琵琶湖に行きますと、デパートの高島屋が興った高島郡に大きな白髭神社があります。比良山地がありますが、この比良も本当は新羅だったのです。関西に行くと質屋のことをなんと言うかご存知ですか。ヒチヤと言うんです。シがヒになるんです。・・・・・僕が一番悩んだのが、高麗神社の分社に白髭神社があることです。

ぼくは日本全国をほぼ歩いていまして、白髭神社はどう見ても新羅系の渡来氏族が祭った神社です。なのに高麗神社の分社に白髭神社があるのはどういうわけか、

・・・その澄雄さん(*五十九代目の宮司)の話でチラッと、そこに高麗神社が祭られる前に白髭神社があった。それが衰微して、その上に高麗神社が重なったものです。・・・つまり猿田彦と一緒に祭っているんです。高麗若光と今でも。猿田彦は白髭神社の神様です。日本で言う国つ神です。

白髭神社が退化して、そこに高麗神社がかぶさって出来た。・・・そういう具合にしてできたということを、ひとつ理解しておいて欲しいと思います。

高麗神社にまいりますと、系図をみせてくれます。ただし、副本です。・・・系図のことを朝鮮では「族譜」と書きます。「ジョクポ」と言います。・・・この系図が鎌倉の中期の1259年に焼けてしまって、しかも高句麗から彼らが渡来したときに持ってきたものが、全部一緒に焼けてしまう。

系図が焼けてしまったので、高麗宗家から出た枝族の有力者が集まってそれを再編集します。朝鮮でも族譜を二十年ごとくらいに宗家に集まって再確認、再編成するんです。・・・

その時に集まった記録が残っています。これは非常に貴重なものですが、高麗、高麗井、駒井、井上、新、神田、新井、丘登、岡登、岡上、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、中山、武藤、芝木の各氏が集まって、系図を再編集しています。

「千七百九十九人の高麗人をもって高麗郡を置く」ということが、「続日本紀」にはっきり出ています。716年に高麗郡が健郡されるわけですが、その長の分かれたものだけでも、鎌倉中期の1259年までにこれだけあります。今にしてみれば、その分族がさらにどのくらい分かれたか、わからないです。

高麗家から分かれたものとしては、一番有力なものが金子氏です。八高線に金子という駅がありますが、ここが彼らの本拠地だったのです。高麗から分かれた分家ですが、これがだんだん広がって、もと狛江郷の調布のほうまで広がってきます。

・・・ここは昔、狛江郷と言いまして非常に広い範囲にわたっていた。井の頭公園までずっと狛江郷だった。江戸時代末期までは狛江百塚と言われて古墳のたくさんあったところです。

・・・この亀塚古墳を戦後になって、国学院大学の大場磐雄氏らが発掘しました。典型的な高句麗の古墳です。

今はけもの偏になって高麗を狛江にしていますが、いろいろな遺跡がまだたくさん残っています。・・・こういう具合に高句麗系は川崎のほうまでずっと広がりますが、高麗神社の高麗さんはどこから上陸したかというと、大磯です。

・・・今でも毎年7月18日にお祭りが行われていまして、高麗の若光がそこから上陸するという神事です。ここに高句麗の連中が上陸して、一方は埼玉県の武蔵野に広がってくる。一方は箱根のほうに広がって、箱根権現になります。箱根に駒ケ岳というのがありますが、あれは馬の駒ではない。元は高句麗のコマです。・・・・・箱根権現、箱根神社です。・・大磯の高麗神社の分社です。

しかもそこからさらに広がって、熱海に行って伊豆山神社になります。

・・・ところが、そうしてしばらくたったら、山形県に寒河江(さがえ)市というところがあって・・・

ところがなんとなく気になって、寒河江がどうして朝鮮語なんだろうと思っていたところ、ちょうど丹波基二氏の「地名」という本が出ました。・・・そして「寒川」というところを開いてみたんです。そうしたら、「朝鮮語のサガ(私の家、社などの意味)から来る。朝鮮渡来人の集落があった。寒川神社はその兵神」と書いてありました。要するに、寒川神社は朝鮮からの渡来人が自分たちの祖神を祭った神社だというわけです。

・・・これは高句麗の連中が来る前に祭られた神社です。行ってみて、古墳などの状況から、そうわかりました。そこでまたかぶさったのです。

しかも一方に秦野というところがあります。小京都ともいいます。ここに行きますと、祇園という地名もあれば、賀茂という地名もあります。大秦野という駅もあります。そこには新羅・加耶系の秦氏族も来ている。

そればかりか、池袋から東上線に乗ってみますと、志木というところがあります。これは新羅がなまったものです。しかも途中に白子というところがあります。これは新羅の連中が居住したところです。

白というのは、神社では白山神社というのがほうぼうにあります。とくに愛知県や岐阜県には数百あります。新潟その他全国にまたがってあります。これも本当は白山比?神社です。

埼玉県に白子、志木があって、新羅郡から新座(にいくら)になった。神奈川県では高座(たかくら)郡ですが、これは高句麗です。埼玉は新羅だから新座です、今は新座市になり・・・

しかも群馬に行きますと、もっと濃厚です。吉井というところがあって、「続日本紀」をみると、百五十八家が吉井連(よしいのむらじ)という姓をもらうんです。甘楽郡といえば、日本でいちばん蚕のとれるところですが、元は韓郡です。鏡川がありますが、これも韓川だったのです。

吉井というのはどういうところからきたのか知りませんが、新羅系の連中は吉井連という姓をもらうわけです。

栃木県にいきますと、那須国造碑というのがあります。これも新羅です。こういうふうに関東だけでもたいへん濃厚に遺跡を残していまして、大和や関東の遺跡をみるだけでも、高句麗系、新羅系、百済系がまんべんなくあり、九州に行くともっと濃厚です。

ただ、非常に薄いのが北海道です。東北まではまんべんなく、先ほど八、九割までが渡来人だと言いましたが、これは日本全国どこでも当てはまります。

つづく

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