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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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ちょっとゆっくりすごします

これから大切な人を迎えに空港まで行ってきます。
一緒にゆっくり過ごすつもりなので数日ブログ更新できないと思います。

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本を書き写し終わって


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                     旧「Earth Blue & Moon Cafe」


こういったものに興味がない人は結構いるかも知れないけれど
宿題のつもりで気合で書き写してみました。

90年代に産土さまの天照宮の宮司さんに薦められて
谷川健一さん(金達寿さんも)の「地名の古代史九州偏」を読んでから
一気に朝鮮半島に興味が出ていろいろ読み始めた。

だけど一番スッとはいってくるのが金達寿さんの本。
遠慮しながらも、シンプルでわかりやすくしかも上品な言葉に
金さんが人に伝えようとする意志がすごく伝わってくる。
本当は言いたいこといっぱいあるんだろなって、
金さんの苦労とか考えながら
いろんなことを想像しながら読みました。

祝詞はよくするけれど
なぜか元々神様の名前には興味がなくて
原田常次さんの本を読み、朝鮮半島の本を読むうちに
一層興味がなくなってしまった。

渡来人のことを詳しく知って
でもなんの違和感もなく素直に受け入れることができて

そのときに強く感じたのは、
人間というものは同じ場、目線で立って
はじめてそこからがスタートなんだと思った。

まず天皇制ありきとか、王制ありきとかにして
初めから大きな壁、特別意識を作ってしまうのは
初めから大切なものを引き渡していることと同じじゃないだろうか。

だから私の僕の国は、民族は特別なんだなんて白々しい。
日本人をよく特殊な民族なんだという人が、最近は特に多いけれど
じゃ、その日本って、日本人ってどこから生まれたの?って思っちゃう。

みんな一旦、平らな地に立ち、
そこから世界をみることが必要なんじゃないかな。

金さんのカボチャの話にもあったように
本を書き写しながらつくづく思ったのは
日本人が特殊なんじゃなく、この土地、風土が特殊なんだね。
国内でも気候によって住む場所によって性格が違うからね。

そのためにも
この恵まれた自然を大切にしなきゃ。


本を書き写しながら何度か
カタカムナウタヒってもしかして朝鮮半島、大陸のものなんじゃないかなと思った。
古代朝鮮語でウタヒ解析するとどんな感じになるんだろうか。
カタカムナのことまったく知らない私がいうのも変だけど、そう感じた。

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神社は朝鮮半島から来たの? その7


これで最後です。まるで宿題のように書き写ししてしまいました。(笑

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これも昨日の空


天日槍の遺跡と地名

先ほどの、韓国に向かい、ここは甚吉(いとよ)きところというのは、北九州の伊都国、魏志倭人伝に出てくる伊都国です。伊都国は北九州、今は福岡の前原町になっています。ここにおりたつわけです。

ふつう高千穂といいますと、高千穂の峰論争があります。・・・・・これは古事記に書いてあるとおりに、われわれは素直に信じてよろしい。

というのは、宮崎県の高千穂は太平洋に向かっていて、韓国に向かっていないんです。・・・韓国に向かい、甚吉きところというのは、いま言った伊都国であったところの前原町です。そこに志摩半島というのがあって、・・・ここに「志摩」が出てくるということに注意してください。・・・

それでは、加耶から彼らがやってきた。天日槍とニニギノミコトがダブるという話を先ほどしましたが、天日槍はどこからやってきたかというと、ぼくは安羅とか多羅とかいうところから来たと思っています。

・・・要するに、天日槍を象徴とするひとびとがやってきた。加耶のなかの多羅と安耶がみんな、これは国を挙げてやってきたものであると、ぼくは考えております。・・・たとえば、いま「古事記」に出ている神功皇后のことを言いましたけれども、神功皇后の本当の名前は息長帯比売(おきながのたらしひめ)です。帯という字を書いて「たらし」という。「たらし」というのを多羅の姫と解釈したらどうですか。そうすると、天日槍の孫だということになる。

・・・では、北九州のそこに天日槍の遺跡はあるのかと考えられる方がいるかもしれません。たくさんあるのです。・・・

・・・有名な都市に唐津があります。これも「大日本地名辞書」をみると、もともとは「韓津」です。・・・それは、地名にしてもまず韓泊がある。大宰府の観音寺の資材帳には加夜郷、それから、・・・韓良(から)であったところなんです。韓良と書いて、からと読ませる。なぜこうなったかといいますと、和銅年間に地名を二字にしろと命じられたわけです。・・・だから、和歌山県は紀伊国、本当は紀国です。・・・これは朝鮮でも古代、そうやって地名を二字にしました。ちょうど同じような時期に朝鮮でも行っております。

いま日本で何々郡と言うでしょう。もとは「評」という字を書かせて「こおり」と読ませたんです。新羅がこれだったんです。新羅はこういう字を使っていて、後に郡に変える。そして、日本でも郡に変えたんです。だから、朝鮮語では今でも「コオル」というんです。郡というのも全く同じです。・・・中曽根さんも韓国に行って、晩餐会でそんなことをい言ってますね。あの人はぼくの本をだいぶ読んでいるんだそうです。・・・

今でも地名としては、志摩半島の近くに芥屋(けや)というところがあります。この芥屋は昔は鶏氷という字を書いて、それで「けや」と読ませた。つまり、加耶です。もっとおもしろいのは、糸島半島にかけて、そこは肥沃な前原平野なんです。そこの真ん中にポコッと一つの山がある。非常に秀麗な山です。これは志摩富士ともいい、また、筑紫小富士ともいっている山ですが、これが加也山なんです。・・・かつて韓良郷だったところに加也山があり、芥屋ということが今でもある。そこから、ここでは貝塚と書いてケエヅカと読むんだそうです。・・・

そればかりか、・・・背振山地というんです。・・・何か思い出しませんか。セフリ、ソフル山地です。それから、その横に早良(さわら)郡というのがあります。これはどちらもソフルのなまったものだそうです。・・・

しかも、古い糸島郡の教育会が編集した糸島郡史がありまして、それを読むとこう書いてあります。「・・・天日槍はまず新羅往来の要律(?)たる伊(都?)国を領有し・・・更に但馬に移りて但馬家の祖となりしなるべし。(久米邦武著「日本古代史に拠る)」久米邦武氏曰く「筑前雷山に存する神籠石は其(天日槍を指す)築きし古?なるべし。・・・」と。

この久米邦武という人は東大の先生だったんですが、東大を追われたんです。なぜ追われたかといいますと、「神道は祭天の古俗なり」、つまり、神社は天を祭る古俗だと、そういうことを言ったため、それが問題となりまして、帝国大学を追放されて、早稲田へ移った人なんです。天を祭ることは朝鮮の太陽神を祭るということでしょう。あるいは高句麗でもそうですが、天を祭る、要するに、日本の神道も朝鮮のそれだと言ったものだから、昔のことですから、問題になったわけです。・・・この人に著書がたくさんあります。

・・・この神籠(こうご)石というのは明治時代から論争になりまして、最近やっと決着がつきましたが、これは古代朝鮮式山城なんです。石でもって城壁をめぐらせているんです。それのいちばん大きなものが・・・岡山県の鬼の城です。それから、久留米に高良神社があります。ここにも古代朝鮮山城があって、いまなおあちこちで見つかっているんです。ぼくも行ってみました。それがソフル山地にもあるんです。

そこに雷山があるんですが、そこに雷山神籠石というのがありまして、今でも貯水池みたいなのがあって、頑丈な水門跡の石塁がそのまま残っています。これはいわゆる逃げ込み城としてつくられたもので・・・敵が攻めてくると、その人民ごとに城に閉じこもるんです。そこに食料を置いて。水は絶対条件です。・・・

・・・それから、その南の肥前山中、肥前というのは佐賀県になります。・・・とある墓家というのは横穴石室です。

「・・・長野県社宇美八幡宮祭神六座の内気比大神あり」というのがまた問題なんです。
「越前国官幣大社気比神宮の祭神と同一の神にして、天日槍を祀れるなり」とありますが、・・・福井県の敦賀にまいりますと、そこに気比神宮があります。これは戦争中は官幣大社でした。この気比神宮と同一の神である。つまり、その天日槍を祀れるなりというのが北九州の伊(都?)国にもあるということです。

気比神宮と息長氏

・・・敦賀のほうへまいります。気比神宮の祭神をイササワケノミコトといいます。天日槍をイササワケノミコトとして祭っているんです。・・・今庄に行きますと、新羅神社があります。・・・いろいろと変えられておりますけれども、ここは新羅神社そのものです。そのものが二つ、この今庄という町にあるんです。

それから、敦賀にも信露貴彦(しろきひこ)神社があったり、敦賀半島の先のほうに白木浦というところがあります。ここは問題になっている原子力発電があるところです。丹生というところまでバスで行きますと、そこから山越えになります。山を歩いたら、足元からキジが飛び出すんです。そういうところでした。その峠を上って下を見ますと、絶壁なんです。でも、眼下に、本当に直下に集落があるんです。そこは十五、六件しかありません。・・・

そういうところで、毎年7月15日になりますと、外に出ている人が帰ってきて、お祭りを盛大にやる神社がある。それが新羅神社です。しかも、おもしろいのは、この集落ばかりではなくて、日本には出雲などあちこちにありますけれども、ここではニワトリを食わないんです。卵も食べないんです。今はおそらく食べていると思うんですが・・・

今でも出雲へ行きますと、三保関、ここも卵を食べません。・・・

どうしてそうなったか。新羅は昔、金の卵から国王が生まれたということで、金氏の国王がずっと続くわけです。その卵と関係あるニワトリがとまっていたところを鶏林といって、今でも慶州へ行きますと、鶏林という遺跡があります。それで、国号を鶏林にしたこともあるんです。・・・ところが、いま朝鮮でニワトリを食べないところはないです。・・・だけど、日本では食べないところが、たくさん残っています。新潟に行きますと、ニワトリ祭り、鶏神社まであります。

・・・ニワトリを食べないというのはどうしてか。皆さんはブラジルの勝ち組というのをご存知でしょう。外に出ると非常にナショナリズムになるんです。非常に国粋的になるんです。沖縄県人というのを、皆さんは、在日朝鮮人ほどではないとしても、差別しているでしょう。差別された人間です。棄民だったんです。捨てたんですよ。それで、日本が勝ったとばかり信じている。沖縄に来て、そこに米軍がいたりしても、なおかつ信じる。信じるということはしようがないです。どうしようもないです。

・・・それから、もう一つは外へ出ると気前がよくなる。また、大きくなる。銅剣やなんかを見ましても、九州から広形銅剣というのが出土していますが、韓国では細形なんです。こっちへ来ると、広くなるんです。古墳なんかも、向こうは小さいです。こっちはばかでかいでしょう。・・・

気比神宮のある敦賀の地は、近江における息長(おきなが)氏族、これは大きな氏族で、日本の天皇家とも密接な関係がある氏族であります。・・・もと東大の教授で・・・斉藤忠さんに「わが国における帰化人文化の痕跡」という論文があります。

・・・ここに言う・・・の須恵器とか垂飾付耳飾、これは皆古代朝鮮から直行したものです。そこから出たものをもって、わが国における貴下人文化と、斉藤さんは規定しているわけです。それを全国にわたって書いてあります。・・・

そして、いまいった山津照神社古墳と関係ある息長氏の中に息長宿禰というのがいまして、この息長宿禰を祭る神社がいま言った近江町の山津照神社なんです。ここは昔、安耶の安那、すなわち安那郷だったところで、それがのちに息長村となり、今は町村合併で近江町になってますけれども、この境内にある古墳が山津照神社古墳で、つまり、神社はその古墳を祭ったものだったわけです。

ぼくは、神社はもと古墳を祭るものであるという話をしたと思いますけれども、この息長宿禰が神功皇后のお父さんということになっています。そして、この息長氏族というのは敦賀を聖地とし、そこにある気比神宮を守護神としているんです。ということは、天日槍を象徴とした渡来系集団、新羅、加耶系渡来人集団から息長氏が出たということです。

・・・近江町というところは非常におもしろい。ここは、百済が滅びてからも、「日本書紀」なんかみますと、 たくさんの人が百済からやってくるんです。おそらく、「日本書紀」に出ている分だけでも三千人を越すでしょう。・・・

七世紀の後半、660年に百済が滅びている。・・・白村江の戦いがあるわけです。日本は援軍を出して敗れる。しかも三万人の救援軍を日本から出したというんです。そのころ、日本の全人口は5、6百万です。そのなかの三万というのは大変です。なぜ滅びる百済に救援軍を出す必要があったのか。何故出したか。

それを、干渉戦だという人がいます。あれは日本が悪いんだろうと、そうではありません。それは間違いである。救援案を出したのは、一体だということです。そのことは「日本書紀」の天智天皇段をみてください。・・・

つづいて、沙宅紹明は法務大臣です。・・・鬼室集斯というのは・・・文部大臣です。これは達率(ダルジョル)という百済の官位第二位の高官でしたが、それが日本にやって来ては、またそういう高官になっている。こういうふうに五、六十人の者にずっと叙位をするんです。・・・つまり、橋の実はそれぞれ異なった枝になっているけれども、それをとって、玉として緒に通すときは、同じ一つの緒に通す。つまり、一体だったというわけです。

このように近江町は百済と一体だったんです。そうでなければ戦いはしません。三万人も近くも出して、白村江で敗れて、しかも、なおかつ何千人という人間を運んで、近江の国、蒲生郡に移し、あるいは神前の郡に移し、そして、二千人に三年間も政府が食わせて、東国に移すというようなことはしないでしょう。そういうことがちゃんと「日本書紀」に書いてあるんです。それだけでも大変な数ですけれども、しかも近江ははじめは、天日槍を象徴とする新羅系渡来人集団の中心地だったところです。

各地に残る新羅神社

それからまた、大津市には新羅神社があります。有名な三井寺をご存知でしょう。もと園城寺です。その三井寺に行きますと、新羅神社があるんです。・・・

源義家の弟の源義光を新羅三郎義光というでしょう。新羅三郎義光はその新羅神社で元服したんです。義光がここで元服したというのは。この神社を氏神としていた氏子だったからですが、近江には佐々木源氏というのがあります。この佐々木源氏の祖神を祭ったのが新羅神社です。それがそうしてわかるのか、ぼくはあとになってわかりました。

浜松市の江ノ島というところに新羅大明神という神社があります。これは小笠原源太夫というのがここへ移ってきて、そこで埋め立て工事をやって、江ノ島というところを開いたんです。・・・・・

話は山梨のほうへ飛びますけれども、武田信玄です。これは甲斐源氏、または新羅源氏とも言ったんです。これは新羅三郎義光から出ているんです。・・・

話をまた近江の戻しますが、近江の高島町に稲荷山古墳というのがあります。・・・これははっきりと新羅と書いてます。

この古墳は誰の墳墓かといいますと、息長氏族の枝族の彦主人王の墳墓だということになっております。この彦主人王は越前の三国から辰姫を迎えた。その間に子が生まれた。そして、彦主人王が死んでしまったので、辰姫はその子を抱いて、福井県の三国に帰って育てた。それが男大?王、すなわち継体天皇です。

このように、天日槍集団から出たもの、それまで語るとなるときりがありません。・・・今日は触れませんでしたが、古代日本最大の民族で、宇佐八幡や稲荷神社などを祭った秦氏というのも天日槍集団から出たものであり、・・・また谷川健一氏の「白鳥伝説」をみると、・・・物部氏なども、天日槍集団から出たものとあります。

これまでのぼくの話を聞いて、信州の言葉でいえば、腑に落ちるのが一つか二つあれば、まあまあとぼくは思います。どうも長い時間ありがとうございました。(1983年5月26日)

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神社は朝鮮半島から来たの? その6


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昨日の空


日本の中の天日槍

天日槍とは

・・・近江は非常に天日槍の遺跡が濃厚なので、書いてありますけれども、天日槍のその重要性についてはほとんどふれておりません。十数年、各地を歩いてみますと、この天日槍という存在が大変なものであるということがだんだんとわかってまいりました。

たとえば伊勢神宮です。・・・伊勢には韓鋏という地名もあります。・・・だんだんたどっていきましたら、これの発祥の地は丹後なんです。・・・そこに籠神社というのがあります。

これは伊勢神宮の元である。ここは天日槍文化圏といってよいところなんです。つまり、丹波、丹後、三丹地方といいまして、この辺は天日槍の文化の非常に濃厚な地帯である。

その籠神社をいつき祭ったのが、天日槍族という言葉をこれから言いますけれども、天日槍族を出石人(いずしびと)ともいいまして、それが建てたのが伊勢神宮であるということをはっきり書いている人もいます。

天日槍はレジュメにも書きましたように、「日本書紀」では「天日槍」と書く。「古事記」では「天日矛」と書きます。これをどちらも新羅の王子ということにしております。けれども、決してそれは新羅の王子などという個人ではなくて、これは新羅系渡来集団の象徴のようなものである。つまり、天日槍というのは人間の名前ではないんです。


古代日本の中の天日槍

これは新羅から渡来した矛や剣で神を祭る集団の象徴のようなものであるということは、直木幸次郎さんも「兵庫県史」の第一巻に書いております。新羅人は太陽を祭ったわけです。いわば天日槍(矛)とは、そのための道具なんです。

・・・水谷慶一さんの本によりますと、太陽を祭るのに「とじ」という言葉がでてきます。そのことをるる説明しておりまして、これを呉音では「つげ」というのだそうです。

「つげ」という地名は関東にもありますし、関西にもいくらでもある。・・・・・そんな具合に新羅人は太陽神を祭った。太陽神と同時に祖先を祭った。そこから神社が発生するということになるわけです。

まず第一に、「古事記」の中に日本の国の初めのことがどう書いてあるか。いわゆる天孫降臨です。・・・

「かれにここに天津の日子番の邇邇芸の命の石位を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、稜威の道別き道別きて、天の浮橋にうきじまり、そり足して、筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りましき」

ニニギノミコトとは、いうところの天照大神の孫ですが、天照大神が孫を日本の土地に天から下すわけです。そして、ニニギノミコトが高千穂の峰に天降る。そこで「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故(かれ)、此地は甚吉き地。」というのです。

つまり、この地は韓国に向かっているとして、「古事記」には韓国と書いてあります。ほかには「唐」という字にしたり、「辛」に直したりしておりますけれども、ここにははっきりと韓国と書いてあります。

そして「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故」、「古事記」なんか読むと、「故」と書いて「かれ」といいます。それであるから、この韓国に向かっているところはよいところである。この「かれ」というのは「ゆえ」でいいのに、どうして「かれ」なのか。

これは明治時代ですけれども、東大の宮崎道三郎さんが出した「日本法制史の研究上における朝鮮語の価値」という論文があります。それによりますと、「故(かれ)」というのは朝鮮語なんです。これは今でも朝鮮語で「故(コ)」といいます。それであるから、それゆえにというのを、「クルン故(コ)ロ」あるいは「故(コ)ロ」ともいいます。・・・・

それはともかくとして、では、そこは一体どこかという問題です。という前に・・・・・この「くじふる嶺」というのはどこから来たかということです。

たとえば、この本は天皇家の三笠宮崇仁殿下の編集した本で「日本のあけぼの」という本です。この中に、大和朝廷の創立者はだれかという項目がありまして、そこにこういうふうに書かれています。

「天孫ニニギノミコトがイツトモノオを従え、三種の神器をたずさえて、高千穂のクシフルの峰、またはソホルの峰に降下したという日本の開国神話は、天神がその子に、三種の神器をもち、三神を伴って、山上の檀という木のかたわらに降下させ、朝鮮の国を開いたという檀君神話や、六加耶国の祖が」、ここに加耶というのが出てきますが、これは天日槍と重要な関係がありますから、覚えておいてください。「六加耶国の祖がキシという峰に天降ったという古代朝鮮の建国神話とまったく同系統のもので、クシフルのクシはキシと、ソホリは朝鮮語で都を意味するソフまたはソフリと同一語である」うんぬん。

つまり、「クシフルのキシ」というのは、これを朝鮮語で「クジ」といいます。金海の飛行場から近いところですが、加耶へ行きますと、これは加羅とも言ったわけです。

・・・そもそも、韓国の韓という字を書いて、「から」と読んでいるのはここから来ているんです。これは朝鮮語でも「カラ」、日本後でも「から」です。これは現代朝鮮語で「クジポン」といいますが、「クシフル」はここから来たんです。これは六加耶国の祖、駕洛国、すなわち加耶・加羅国を開いた首露王というのです。これがそこへ天降ったということになっています。クジポンというのは、その伝説の降った峰なんです。行ってみましたら、小さな、ちょうど大和三山のうちの天香久山みたいな山です。

・・・また、詳しくお読みになりたい方は、平凡社から「日本語の歴史」という本が出ております。・・・この「日本語の歴史」第一巻は「民族の言葉の誕生」というものです。」・・・

要するに、この「古事記」の読み方は、ここに言う韓国はもちろん南朝鮮のことで、そこは天つ神、ちまり天孫の故郷と解することが文章にかなった最も自然な読み方であるということを言ってるわけです。先ほどの三笠宮の編纂した本に書かれていることと同じ事を言ってるんです。

そして、さらに続けて、「天孫降臨が海北(南朝鮮)から筑紫へ渡ることを意味していたと見ることができる」「大和朝廷の天皇家の祖先たちは、海を渡って南朝鮮から北九州へ渡来し、そこを日本における最初の拠点としたのであろう」「南朝鮮から北九州へに渡った外来民族は、何代か後に畿内に進出した。これが神武東征伝説に反映していることはいうまでもない」と書いている。

つまり、林屋辰三郎さんが、天日槍の渡来伝説は神武東征伝説と全く同一のものであるといっているのと同じことを、ここでも言っているわけです。神武東征伝説というのは、そのことを伝説化したものであるといってるんです。

そこで、こにいう「任那」について言っておきます。・・・・・

これは朝鮮語でいいますと、「任那(ニムナ)」というんです。これは主(あるじ)の国、または君主の国という意味です。日本という国号ができるのは、七世紀に入ってからですから、近江朝になってからです。・・・にもかかわらず、それ以前にどうして日本という言葉があったのか。ということで否定されておりますけれども、しかし、「古事記」や「日本書紀」は後に書かれたものです。八世紀にできたものですから、その時、現にある名前をもってつけても、別に不思議はない。

ですから、任那日本府を、「日本書紀」に書かれているとおりに文字とおりに考えるからいけないのです。・・・・・

加耶の中に安耶(あや)という小さな国があった。この安耶を安羅(あら)ともいい、安那(あな)ともいうわけです。・・・朝鮮語では、ラ、ヤ、ナというのは容易に転訛し合う言葉なんです。・・・

もう一つ例をあげますと、いちばん有名な神様に、大国主命があるでしょう。・・・中にこういう名前もあります。大穴持命。この穴というのは安那、ここから来ているんです。そうすると、大国主命にもなるでしょう。


加耶諸国の重要性

それでは天日槍というのはどこから来たかということです。ここで日本の天孫降臨のニニギノミコトのあれとダブるわけですけれども、ぼくは新羅・加耶系といっておりますが、・・・・朝鮮では高句麗・百済・新羅の「三国史記」という本がありますけれども、これは本当は「四国史記」でなければいけないんです。加耶諸国というのは、・・・・もっと広かったんです。・・・非常に古くて、しかも日本とは最も密接な関係があるところです。

・・・いま韓国では加耶開発十ヵ年計画というのをやっております。そこから出土品がいろいろ出ています。そういう出土品と合わせて、今後、日本の国の成り立ちと加耶というのが非常に大きな問題になって浮かび上がってくるはずです。・・・

この加耶にはほかにまた多羅という国もあったんです。・・・「たたら」というのがあります。製鉄のふいごでしょう。要するに、天日槍集団というのは農耕文化を持ってきたものなんです。農耕文化というものは鉄文化です。多羅という国が最終的に滅びるまでには、国を挙げて日本にやってくるんです。

・・・・・その「続日本紀」の772年、・・・そこにはっきり書かれていますけれども、大和の高市郡は漢(あや)氏が全人口の八、九割を占めていた。漢字の漢を書くものだから、厄介なんですが、これは安耶(あや)なんです。・・・つまり、百済に制圧されていた安耶。そこから彼らは十七の県の人夫を引き連れて飛鳥に来て、今来(いまき)に郡(こおり)をつくった。これが高市郡です。

・・・今来というのは、後からやって来たものということで、初めは「来」という字でしたが、後に「木」という字に変えるんです。・・・

これは百済・安耶系の今来です。今来というからには古来(ふるき)がなければばらない。・・・当然、古来があるわけです。これを上田正昭氏などは「古渡り」といってます。これから話をする天日槍は、その古来なんです。

・・・やはり、新羅、加耶が日本の建国にとっては最も中心的な存在になる。

つづく

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