http://pds.exblog.jp/pds/1/200903/01/62/b0086362_12252453.jpg',400,300,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>これが一番体に良いと思った「あるスタイルの食」をとりつづけることは
「ある一つの特定の知識」を学び続けることとよく似ている。
食を選ぶにあたっては自分で決めたり、人に薦められたり、
信用できる人がその食を続けているからとか薦めているからとか
色んな理由で、”一つの食”を選ぶ。
本来、食のスタイルは体が違うように個々によって違うはず。
年齢や人種や風土によっても違う。
時代と共に食スタイルも体も変化する。
この食さえあればいい、これ以外のものは一切要らない。
そんな食は私は考えられない、あり得ない。
たまには甘いものや辛いものも食べたくなるだろうし
それを体に良くないという理由で一切押さえ込んだりしたら
無意識のレベルで何が起きるでしょう?
これを多くの人がやれば集合無意識では何が起きるでしょう?
どんなに良いと言われるものでも向き不向きがある。
薬効効果のあるものは長期間摂取してはいけない。
かえって体を害することになるでしょう。
なのにこれが一番だと思うと、信じ込むと、頑固にそれを続ける。
心身に異変が出ても周囲の心配の声も聞き入れない。
疑念が湧き出ても、これは好転反応だと良いように考える。
それでも疑念が消えなかったり、食スタイルを変えようかと迷いが出てくると
同じ食をしている仲間からは頑張って続けなさいの応援の言葉がくる。
もちろん雑多に色んなものを取りすぎるのもまた良くない。
食の言葉を知識に置き換えて読んでください。
ぴったりですよね。
今度は知識について書きます。(もちろん食も同じです。)
私が何を言いたいかというと
「ある一つの特定の知識」を学び続けることは危険だと言いたいのです。
理由は自分を捨てることだからです。
生きることを放棄することだからです。
同じものを精神に長期間入れ続けるのも危険だけど
自ら感じ、思考しないことは更に危険です。
これじゃ、ロボットです。
人は日々試行錯誤しながら迷いながら考え、
自ら生きることが大切なのに
これしかない、これが一番だと信じて妄信して
特定の知識を取り入れ続けるということは
自分の頭で考えないということです。
五感を使わないことです。
自らを放棄している。
自らで生きることを放棄している。
「知識」を「教義」に置き換えれば、「宗教」のシステムと同じ。
「食」と「知識」と「宗教」はよく似ている。
たとえば
ある目的地へ皆で向かうことになったとしましょう。
そこへ行くのに自らで考え向かう人はいろんなことに出くわします。
ようやくの思いでたどり着ける人、案外簡単にたどり着ける人、
一生たどり着けない人、いろんな人がいるでしょう。
誰かが製作した地図を見ながら向かう人はどうでしょうか。
簡単にたどり着けるかもしれないけれどこれは生きるとはいえません。
地図を見ながら考えるということは地図の製作者のパターンで考えることです。
仮に間違った地図ならそれこそ取り返しがつかない。
そしてその目的地とは一体何でしょう?
たどり着けるものでしょうか?
(私はたどり着けないと思ってます。)
そして目的地は本当に存在しているのでしょうか?
私は目的地にたどり着くことよりも
たどり着きたいと願う自らの心を感じ、
自らの脳で考え、自らの足で歩くことが一番大切だと思う。
借りものの心、脳、足は駄目。
食でも知識でも
これしか要らないなんてこのこの世界にあるだろうか?
世界は何のために誰のためにあるの?
何のためにこの色とりどりの世界が用意されているの?
生きるって何?
脳は何のためにあるの?
何度も何度も過去に書いてきたように
人は本来のチカラ、ハタラキを使っていない。
依存が大きければ大きいほどチカラ、ハタラキは使えずじまいです。
使われないものは錆びてしまう、朽ちてしまいます。
脳は使えば使うほど機能します、年をとりません。
自ら、もう駄目だとか、年だと言い聞かせて駄目にしてるのです。
顕在意識から潜在意識に向かって駄目だと言い聞かせているのです。
体が衰えればその分、脳はハタラキます。
自分をもっと信じて本来のチカラ、ハタラキを使いましょう。