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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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荒れ模様になるらしい


今夜から明日にかけ全国的に暴風、突風、竜巻の恐れがあるそうです。
沖縄も明日から寒くなるそうです。
那覇は先ほどから雨と風。
風に飛ばされないよう、風邪を引かないように、ね。

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ノート 14


20~15年ほど前のノートから
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重力
10の次元を有する

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謎の?「古市一族」


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過去に何度もぶっ飛び「古市」を書きました。
古市→フル(ニギハヤヒ)→朝鮮半島→モンゴル→ヘブライ、ヘブル→・・・シュメール
ざっと書けばこんな感じで。

今日は日本家系協会から出ている「古市一族」から抜粋してみます。
他の古市の方も参考になさってください。
全部は書けないので、しっかり読みたい方は直接取り寄せて読むと面白いですよ。
日本家系協会からは色んな一族が出されているようです。


■古市の氏号と古氏伝

古市の苗字は他と同じように地名から由来しているが
ただし、かなり古い時代にもみえる
原野を開拓しその土地に古市氏の名を残した例もある

古市は故市とも書き、読みは同じで当時の郷や村の名前に多い
(*有名なのは伊勢神宮と河内の古市古墳群など。
本ではずらっと地名が載っていて関西から南が多い。)
読み方はフルイチだが、フルチとも読む地名があったり、
二つの読み方で呼ぶ地名もある

新撰姓氏録に河内國在住の渡来系氏族として古市村主がある

百済國の虎王の後との注記があるが、虎王は古記になく誤記の可能性あり

日本書紀の天武天皇の即位前紀に古市黒麻呂の名前あり
(百済から渡来した一族が河内国古市郡に居を構えたその族人)

奈良時代の古文書に古市村主寸食の名

古記「撰解文書」に古市男女丸と写経所勤務の古市氏

平安時代前期の文献に摂津国東生郡の古市乃大戸麻呂あり
この地を古市郡古市村というのは河内国からやってきたためか、近江國も同じか?
平安時代以後、河内の古市氏の事歴は不明

南北朝から室町幕府にかけたころに畠山氏に内紛があり同族が共に戦う


■大和武士の古市一族
大和武士とは古き時代より大和國に存在し、
春日神社、興福寺を中核として勢力を持ち続けた在國武士の総称
鎌倉幕府の時代になってもこの国には守護職は置かれず、
大和武士の大半は興福寺の僧兵大衆を指導する立場にあった
興福寺には二つの院家があり、
室町時代に大乗院管轄の福島市の代官の古市氏がある

古市氏の経緯については奈良県史代十一巻に詳細あり

古市氏の本姓は清原氏、天武天皇の皇子、舎人親王の子孫

興福寺の衆徒、大乗院方の坊人の古市胤賢→胤憲(丹後公)
胤憲→胤仙(播磨公)→宣胤(禅実公)と胤次(中務)
      ↓
胤栄(丹後公、始め春藤丸、連歌と茶道の人)→澄胤

澄胤(叔父、宣胤の養子となり初心院に入り倫官坊という)
文明十年正月に興福寺の官符衆徒となり、播磨公と称す
越智党に属し筒井氏と戦うこと多く、その後破れ多くの記録が失われる
武芸の他、能楽、連歌と茶道の有名人
 ↓
胤盛(丹後公)父と同じく多くの合戦に参加

戦国時代後期の天文年中にも古市氏
和州国民郷土記に郡ごとに数多くの家名、人名あり
例えば、古市城主 馬乗百七人、雑兵九百七十人など…


■大和古市氏の後孫伝
国民郷土記に古市五左衛門(胤家)の名あり
左近胤重は古市五左衛門の子か弟であるといわれる

胤重の子か弟であるといわれる胤宗は
藤堂大学高次に仕え、その後前田利常に仕え共に殉死

周防から長門地方に移る一族もあり、萩地方の古市氏もこの流れか?
”古市西之坊、三井寺円満院殿の内”という記もある

近世の後期、円満院門跡の侍臣に清原姓の古市在胤あり

播磨公澄胤は有名な武人で茶人
これにつぐ茶人の古市利庵は澄胤の兄の胤栄ともいわれる

古市利庵(足利義昭に仕え茶人珠光の弟子)→
勝澄(詔意と号し、円乗坊という)→宗円(円乗坊)
 ↓
了和(名は勝元、源上ヱ門、号は円覚)医師となり小笠原家に仕官→
宗也(養子で名は勝悦、源上ヱ門)古市流茶道の祖・・・・・・宗理
幕末には宗理改め宗也(猛勝)あり

宗円(円乗坊)は千利休の婿となる(元本能寺の僧)
播磨公澄胤の子の説もあるが年代が合わない
古市左馬助も千利休の門弟

宗円の系統
古市宗円→宗屋(勝澄)
   ↓
宗庵(養子、京都の横川理安の子)→宗庵(宗庵二世、船津玄智の子、始め宗佐)
→宗円(始め堤盛嘉といい、熊本藩))→宗佐(円乗坊系の4世となる)

宗佐→宗佐(細川家の茶道の人)→三悦(養子、大野九朗右ェ門の子)
      ↓                ↓
宗薗(細川家の茶道頭)        宗安
  ↓
宗庵(茶道頭はじめ三悦)→宗安(始め理安)→宗栄(養子)→
宗安(名は斬、周佐、明治維新を向かえ藩の茶道は廃止)


■南九州の源姓古市氏
薩摩島津藩に清和源氏の系統、古市氏があり、以後代々古市氏
(古市氏の先系は足利氏の分かれの大族最上氏の系統)
出羽の大国最上氏の族人が遠い地の南九州に移った経緯は不明

最上氏の初期の系統
清和天皇→貞純親王→源経基→満仲・・・頼義→義家・・・義兼・・・
秦氏→家氏・・・家貞・・・家兼→直家・・・
(古市氏の系はこの何れにつながるが、詳細は不明)

京都近衛関白家とも関係あり
関が原戦後に最上氏に改める古市もあり
日向記にも古市氏の名あり


■諸国諸流の古市一族
平安時代末期の伊勢國に故市(フルイチ)伊藤者景綱あり
藤原基景→基信→故市伊藤者景綱(平忠盛、清盛に仕える、伊勢守)・・・

東国の小野姓横山党に古市氏
中興武家諸系図にも小野姓・・・・古市の名あり
ただしその本國を河内國古市とするのは誤り
河内の古市氏が古くから有名なための影響

豪族佐野成綱の三男船越増綱の系統に行藤(丹波守、後に古市右京)あり
松平藩にも古市あり
上野国藩主酒井忠世に仕える古市氏は後に播磨国姫路の藩士に
幕末の古市孝の子で日本で最初の工学博士になった人もいる

小野妹子の十九世孫に古市親泰(小野妹子は小野氏の上祖)
江戸の儒学者に古市東之進など・・・


以上。

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幣立神宮の春木宮司が書かれた本では
幣立のすぐそばに古代帝都「古市」が存在したとあったけれど
この古市一族には載っていなかった。
秦氏もちらっと出てきたし、
やっぱり、謎の一族だ。

人との巡り会い、相性の良し悪し、
そして縁がある土地や仕事、
例の禅のお坊さんに限らず昔からお坊さんに縁があるのも、
こういったルーツとも関係あるんだろうな。

そしてネットで知り合った人ともめたりするのは
普段無意識で避けている縁が出会うことでもあったり
また日常では出会えない人と縁が出来たり、
ネットの出会いはこういったルーツと大きく関係ありそうな気がする。


これは前にも書いたことだけど
フルチと読めば、古血、古霊で古い血統と読み取れる。
古い血(フルイチ)でもね。

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