祝詞考察

祝詞に関してメールもいただいているのでお伝えしておきます。
祝詞で雨が降ったり台風が小さくなったり、願いが届くのは
この前も書いたように、特技だと思ってます。
詩を書いたり絵を描いたり写真撮ったりしますがそれと同じことです。
誰にでも特技ってありますよね、それと同じです。
変わり者かも知れないけれど自分が特別だなんて思っていないし
思って欲しくもありません。
祝詞が届くことを
ああそうなんだと、淡々と受け止めてくれたら嬉しいです。
私に対して良し悪しに関係なく妄想を抱かないで欲しいなと願います。
自分でも祝詞がなぜ届くのか未だにわからないけれど
なぜか届くと思ってしまうのです。
きっと祝詞に向いた声をしているのでしょう。
利害が発生しないから届くのでしょう。
無邪気にやってるから届くのでしょう。
私と空との、無邪気な契約です。
しかし、本当に祝詞が届いてそうなったのか、
たまたま毎回偶然が重なっただけなのかも知れません。
でも毎回実現すると届いたのかなと思ってしまいます。
本格的に祝詞を始めたのは89年だからもう20年近くになります。
でもこれからも届くという保障はもちろんありません。
しかし、本来届くはずの祝詞がどうして現在は届かないといわれるのか?
これを考えることに意味があるかも知れません。
私の祝詞が物理として天気に作用してるなら
そのシステムが科学的にわかると面白いかな。
科学的に実験して欲しいと思ったことが過去にあります。
あ、今これを書いていて思い出したけれど
確か、ヴェーダで何かの楽器を鳴らせば雨が降ると言ってたような。
以前もコメントで何度も書いたように、私は祝詞の意味を重要視していません。
神道関係者に怒られそうだけど、神さまの名前も内容も一切無視しています。
波動、振動だと思ってます。
音としてやってます。
だから、ヴェーダの楽器の話はうなづけます。
もしかしたら楽器に似たような振動の声なのかも知れないな、ってふと。
波動、振動だと言葉に関係なく、世界中に宇宙にまで届くからです。
波動、振動だとすべてのものに届きます。
だから「あおうえい」の発生練習のときに
銀河系の真ん中に届けるつもりでやってみてくださいと言いました。
この発声練習だけでも体調がよくなったりしますよとも言いました。
仮に私が気でも変になって、私は特別な人間だと言ったとしましょう。
でも突き詰めればすべての人間は皆それぞれ特別なんだと思う。
全部が特別な人間だとしたら、あ!誰も特別でなくなっちゃていいかも。
私がいつもしつこく言ってるのは
皆がそれぞれの力を信じて生きて欲しいということです。
まだまだどこまで伝わっているかわからないけれどこれが一番伝えたいこと。
私は私を表現したい、
私を生きたい、
メッセージを発信していきたい。
だからアーティストとしてやっていきたい。
これはずっと変わりません。
私を表現すること、生きることは
他者・他物を表現し生きることにつながるでしょうね。

最後に
祝詞のCDを希望される方は多いですが
私自身、なぜか未だに祝詞のCDを出す気に全然なれなくて
親しい周囲のものも母親までもが止めたほうが良いといいます。
母親は祝詞だと宗教のイメージがするといいます。
それを聞いてちょっとびっくりだった。
神道は宗教じゃないと思ってたけどそんなイメージがあるんだ、って。
コンサートでは二回祝詞と詩の朗読をしましたが
こういうのはたまにはいいかなと思います。
また今閃きました。
潜象界で祝詞が届くのを知っているから私の祝詞が届くのかも知れない。
無意識の場で届くことを知っているならこれほどの力はないからです。
この場の記憶があるからかも知れない。
以前にも奇妙なポジティブ信仰の話で書いたけれど
どんなにポジティブなことを思っても願っても言葉を発しても
無意識の場でそれを否定するような思いが少しでもあれば願いは叶わない、
否定の思いが勝つといいましたよね。それかも知れない。
また考察してみます。
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あなたの愛が大いなる存在の愛と共鳴する。
あなたの愛は他者を思いやる無償の愛なのですね。
わたしはいつもこのページを読みながら感じていますよ。
| kenshin | 2008/09/29 15:11 | URL | ≫ EDIT