祝詞考察その3
皆さんコメントありがとうございます。
祝詞に関してのコメントを随時アップしていきます。
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■Commented by すず at 2008-09-29 18:12 x
>自分が特別だなんて思っていないし思って欲しくもありません。
私がまゆみさんを好きなのは、まさにそこなのだと思います。「素晴らしいと思うところは」と書きかけましたが、「好きなのは」と言っておきます。賛美はまゆみさんの嫌うところでしょうから。
祝詞で天候を左右できることも、そんなことが出来ても自分を特別だと思わず淡々としていることも、普通にはスゴイことなのですが、自分はスゴイ能力者と自己讃美し、周囲も教祖視して信者グループができる、といった例が精神世界系にあふれる現在、そちらのほうが全くゆがみきっているのでしょう。
誰かが「左脳(科学力)で出来ることは、本来すべて右脳でできる。古代人はそうしていた」といっていました。おおがかりな科学でする天候操作に、祝詞ひとつで対抗できるわけです。
自分は平凡で何も特別なことは出来ない・・・私の心の底にも頑固なその想いがあります。
まゆみさんの幼子のようなとらわれのなさに、学びたいです。
■Commented by うれし恥ずかし・いのころぐさ at 2008-09-29 23:09 x
祝詞は、感謝にかえて “ただ、ある” ということを表明するだけ。
「あるがままにあれ」。ただ、それだけを表明するに過ぎない。
“あるがまま” でない方向に向かおうとしているとき、祝詞は禊ぎの効果を発揮する。
その純真な方向性こそ、祝詞のパワーをもたらすに違いない。
■Commented by kenshin at 2008-09-29 23:15 x
私は毎朝、「仏前勤行次第」(これは、マクロの桜沢さんの弟子の菅本さんがくれました、彼女は戦後に自然塩を復活させた方です)を読んで、シュタイナーの「魂のこよみ」読み、「ト、ホ、カ、ミ、エ、ヒ、タ、メ ア ウ ワの神様この地球をお守りください」と声をあげて祈ります。
声あげて祈ることは気持ちのいいことです。そして瞑想をすると少しつづ自分の本性が見えてきそうです。私は大いなる存在に祈ります、そうです神に祈るのです。遠い遠い彼方の存在に何時か光になって会えるように自分の真実を求めて永い永い旅を続けようと心に誓っています。
■Commented by けいこ at 2008-09-29 23:30 x
「ことば」の一種だとおもっています。
たとえば日本語をつかって意思疎通や感情をやりとりをすることはそれを使うヒトとしかできない。
たとえ、日本語を使う人たちと日本語を使って意思疎通、感情のやりとりをおこなったとしても、「ちゃんと伝わるかどうか」はまた別な問題がある。相性だったり、倫理観や価値観で様々な誤解が生じる。ちゃんとつたわっても、相手が自分の意志や感情をくんで動いてくれるかはまた別問題。相手の都合や自由意志があるから。
言葉を届ける側と受け取る側の様々な符号をあわせて始めていろんな事が動いていくと思う。
まゆみさんの祝詞の様子をみていると空や気象とお話しできることばなんだろうな、と自然におもいます。でも、だから同じ祝詞をまゆみさん以外の方が使っても届かないのもアリだと自然におもうし、まゆみさん以外の方が使っても届くことのアリだとも自然におもいます。
もしかしたらアタシをふくめてみんなが空とお話しできる未来もありかもしれません、とけっこうマジで思っています。えへ♪
■Commented by SM at 2008-09-30 00:32 x
まゆみさんの祝詞は波長だし振動だし音だと思ったら、すぐ下に、ご自身がそう思ってらっしゃると書いてあって、やはり!(にやり)
カタカムナのウタヒもそうですよね。
また、祝詞に向いたお声という個性を自覚して発揮されている。きっと楽しみながらと想像させてもらってます。
以前「瀬振りサンカ」という映画を見たのですが、仲間に何かを知らせる手段として声を出すと雪崩が起きた場面がありました。一種の周波数で雪崩をわざと起こしたんだと思います。そして雪崩は良くない知らせの場合でした。逆の場合の音もきっとあるはずです。
この様に、声というのは周波数の違いで様々なことを起こせる事が出来るということはそれを純真な思い(念)で天に届けることが出来るなら、天は悪いようにはなさらないだろうと思っています。また信じて疑わない強い気持ちが、実現の方向へ向かうのだろうと
アボリジニや台湾の原住民やネイティブアメリカン、アイヌや琉球人、その他大勢の少数派民族の太古から脈々と受け継がれし音楽には、そういった天に届く音がまだ残っていると思うのですね。
えー、何だか支離滅裂な意見になったでしょうか?私は、そんなまゆみさんのカタカムナウタヒやエネルギーに満ちた音を信じ(神事?)、天に届けと念を送っています。
■Commented by Snowy*Heart at 2008-09-30 01:14 x
ヒオキさんの『意識から変遷して潜象において受理されるもの』がしっくりきます。
私に取って祝詞奏上とは、神様(祖神 おやがみ)とのつながりに想いを馳せる時間です。
それは目に入る漢字の意味をたどることで行なっているともいえるし、発する声で直接、繋げているようにも感じます。
話は脱線しますが、同じく”音で表現”する「真言」は「祝詞」と効果が違うのですか?
■Commented by いずも at 2008-09-30 07:53 x
祝詞はやまと言葉での言霊だと理解しています。禊ぎの効果をいただき感謝する事ですから、危険な事など一切ないのではないのでしょうか。春日大社の葉室宮司さんは、暇さえ有れば(おおはらえ)を心の中であげているそうです。
■Commented by 三四一九 at 2008-09-30 09:50 x
この世で一番おくれているのが現宗教と宗教家です。本来の信仰解っていない人たちです。祝詞のことあなたの思うようにしてください。
正神真神には戒律ありません。今では岩戸開けています、人を助ける想いは天地に通じます。言霊には力あり、あなたのもって生まれた力です。
■Commented by misa at 2008-09-30 10:15 x
祝詞奏上は神社でしか実際に聞いたことはないのですが、普通の話し言葉とは違う発声で、振動していながらどこまでも届く声・・・という印象を持っていました。
話し言葉でさえ心地よく響く言葉とそうでないものがある訳ですから、祝詞により生まれる振動によって、それぞれの言葉が届けることができるのかな。
私自身は祝詞奏上をしたことないけど、あの声の振動を自分でも出してみたいなと思うことがあります。
■Commented by クニ at 2008-09-30 10:34 x
まゆみさん、はじめまして。
いつもROM専門なのですが、祝詞について書かれていたのでコメントさせていただきます。
スペーシアさんの「神様には感謝するのみ」という意見にはその通りだと思います。
大祓祝詞の起源は古く、もともとは天皇陛下が国民に対して、罪穢れ、災厄を取り除き万民の幸福を祈る為に、6月と12月の晦日に大祓の儀式が執り行なわれていたようです。現在のようにいつ誰でも唱えられる形式は中臣祭文と呼ばれていて、国民が神に対して申し上げる形式だそうです。
天候などの自然現象を操作するのはいかがなものかとも思いますが、まゆみさんが行われているように万民の為に罪穢れ、災厄を取り除く為に奉唱されるのなら問題ないのではと思います。
ただ祝詞をしたという宣言は別にしなくてもいいのかなとは思っていますが。。。ちなみに、祝詞の意味は知らないで奉唱しているよりは知っていたほうが、効験が大きいようです。私も浅学ですので、何か間違えていたらご指摘いただければと思います。
■Commented by 知足 at 2008-09-30 11:11 x
まゆみさん初めまして。
いつも情報とより良き世界への情熱をありがとうございます。
祝詞の歴史やそもそも論もいろいろありましょうが、国を護る神に国難回避を祈って何が悪いのでしょうか?日本の歴史上も国難の都度、神仏に社寺を挙げて祈ってきたではないですか。
私見ですが神道の祝詞や仏教のたとえば真言・念誦次第・観法等は神仏と心の波動を同調させるための技法だと思っています。
心を神仏とできるだけ一体化させて、虚心・謙虚にひとのために祈る。
もしもそれを咎めたり罰したりするような神仏であれば私はそのような神仏は信じたくはありません。(私はこれまで30年近く神仏を信仰してきておりますが。)
蛇足ですがたとえば『祓いたまへ、清めたまへ・・・』って既に『お願い』なのでは・・・?
■Commented by shige at 2008-09-30 12:29 x
祝詞については以前私のコメントに沢山のご返事を頂きました。
読み返してみて無垢な心で感じていることは
ご自身の精妙な波動で奏上する祝詞の言霊はそれだけでも
まゆみさんが言われる宇宙の中心の存在に届いていると感じています。
祝詞を奏上される方の純粋さ波動の精妙さがすべてではないかと思っています。
物理的に働きかけて届いてるというのが分かりやすいですね。
でもなぜ他の方の祝詞が届かないか・・・
まゆみさんが言われてる天との契約があるからなのかとも考えるんですが。
それと以前のコメントのご返事に
>それから経験上ですが、
>祝詞を使いこなせると祝詞なしでもできるようになります。
>意識のみでできるようになります。
・・とありましたのでまゆみさんの思いの世界に作用する力が強いとも考えられますね。
■Commented by momonga at 2008-09-30 14:16 x
とても古い時代から,祝詞のような言霊や波動で,人と自然界はずっとつながってきたのかもしれませんね
まゆみさんのような方が現代にいらっしゃって,本当に良かったなあと思います
5年くらい前からですが,わたしは樹木と大地に祈るようになりました
やりかたは樹木に教えてもらいました(笑)
そうしたからこうなったという話は,あまり書きたくないのですが,地震のスロースリップという現象が収まったりすることがあります
私の祈りは地震を防ぐことが目的ではないので,地震とは関係なしに,これからもずっと祈っていきたいと思っています
■Commented by やまめ at 2008-10-01 00:25 x
ここのところ忙しくてゆっくり読むじかんがありませんでした。
出遅れた感じがありますが、私なりの考えを。
まゆみさんに教えていただき、時々祝詞を練習しています。
おなかのそこから出す声を、裏山に向かって放つとき、
自然が喜んでいるような気がします。
祝詞は自然と人間を結ぶ波動なのかなと思っています。
■Commented by kaoppusu at 2008-10-01 02:36 x
ブログを毎日拝見させていただいてます。今回初めてコメントさせていただきます。
いきなり私事で恐縮なのですが、日ごろ即興演奏をしているもので、そのことと祝詞を結びつけて考えてみました。
といいますのも、演奏しながら感じるのですが、楽器から音を出すというよりも、演奏者同士が互いの内的な意識を楽器を通して表出しているようなイメージがあって、その際に互いの内的な意識が融合するか、しないかの差が大きい。
うまく融合した場合、不思議と「瞬間的に良い音が重なり合う」ような場面が多々あります。こっちの放った意識が相手の意思に影響を与え、それが更にこっちの意思に影響を与え、同じベクトルを向いていくようなイメージでしょうか。表出された意識は、目には見えなくても、意識を投げかけた対象には何らかの影響を及ぼすのではないかと思います。まゆみさんは宇宙の意識と自分の意識を融合できる優れたアーティストだと思っています。
私的には、祝詞というのは意思を伝える洗練された様式ではないかと考えます。なので、まゆみさんのように通じる感覚を体感されると、意識だけでも通じるのではないでしょうか。
■Commented by Joyfull at 2008-10-01 05:09 x
久しぶりです。
普段、声に出す祝詞奏上と、心中での祈りの間にそれほどの違いが有るとは感じていません。
どちらもまず、お礼や不行き届きのお詫びを述べることで心を整え、向かう方向を定めています。祝詞をあげながら願いを発信することもあります。
多勢の方と一緒にあげる時は、全体の高低やリズムを整え、あるレベルの波動に届くまで引っ張ることもありますが、たしかに演奏と似てますね。
祈りの時に、先に心の中で祝詞をあげることもあります。これも心の状態を整えるためなんですが、呼吸は声を出す時と同じようにする方が良いみたいです。
ということは、どうも祝詞で大切なのは息吹なのかもしれませんね。
速度は速くても同じですが、息吹が付いてこれるかどうか・・・
それと、私も能天気のほうなんですが、仕事の邪魔をするのも悪いので、願いを控えることが多いです。
早明浦ダムは気になりますが、あの場所は台風でしか大量の降雨がありませんので・・・(空海さんも困って、池を造ったのかな)
■Commented by わたり at 2008-10-01 12:25 x
>さて、祝詞って何でしょう?
何なのでしょう…?と思いながらROMってました。
「お願い」と「祈願」は質が違うように感じます。お願いには個人的な媚びを感じますが、祈願は字の如く祈り。祈りには、この世の愛と誠実さを感じます。祝詞は祈りの部類なのではないでしょうか?祈りの無い土地は、動きが無いように感じます。時間も生き物も動いていない感じ。祈りがあって世の中が自然にそって動き回るのかも。 それが「お願い」の類いが多くなってくると変な実験とかで地球がどうしようもなくなってくる(固定されたイメージ・流れの無い澱み)。祝詞(世界中にあると思う)的な想いの人が増えると、地球自体が動きだして良くなるのかも知れない。
頭の中には明確にイメージがあるんですが、言葉にするには難しく、つくづくメッセンジャーの資格は無い私だと痛感します。まゆみさんの祝詞を捧げ、告知する行為を含めメッセンジャーの役割があるのだと勝手に解釈して、出てくる情報を吸収させて貰っております。
■Commented by すず at 2008-10-01 13:44 x
私も出遅れてこちらに書きます。
神様には感謝のみでお願いはしない、というのは基本的に正しい態度だと思います。
しかしそれだけでは語れない面が神とヒトの間にはあるのでは。
無信心の人でも「神様助けて!」と祈ることがあります。その心に応える神があるとすれば、人間界に最も近く個人に働く「守護霊」みたいなものでしょうか。守護霊的カミには普段は感謝のみがいいと思いますが、ヒトは赤児のように泣いて神に救いを求めるときというものがあるものです。それはカミ=祖(オヤ)であり、オヤは子の幸福を願うという根本からくる自然なことだと思います。
昔村々には村を守護する社、あるいは巫女的存在がいて、村の平和を護るために働くカミがいたでしょう。村が旱魃になれば巫女を中心として皆で祈ったでしょう。そこの山河に棲むカミ=竜神のような存在に向かって。それも又大自然界(カミ)とヒトが親と子のようにつながっていれば自然な行為です。
国家が存亡の危機にあるようなとき、クニを代表するシャーマンがクニを守護するカミに祈ります。日本の場合それは本来天皇の仕事でした。(クニの守護神は、古代史的には宇佐八幡宮にあったようです。)
地球が大変なことになっているという危機感をもつとき、人々の心に平和な地球を求める願いが芽生えます。一部のシャーマン的人々もおおいにハタライテおられるでしょうが、人々のこころに芽生える願い=祈りも、大きなハタラキのうねりとなるでしょう。地球の守護神もまた、地球の平和と進歩を願っているから、ヒトとカミの願いが合い通じるからです。
巨大台風や大地震が来るとして、それが自然界の大浄化の働きだとしても、少しでも悲惨な被害が少ないように祈る行為は、自然界に対する謙虚な態度からはずれるとは思いません。自然界はヒトの死をものともしないところがありますが、カミであれば慈悲のこころもあるだろうから、人口の少ないところを選んだりしてくれるのです。ヒトもカミも「良い願い」の部分で合い通じるのです。
あるいは巨大台風が科学による悪意を持った気象操作によるものだとしたら、なおさらカミの子たるヒトの「良い願い」の出番です。祝詞とはこのような時に威力を発する言霊のチカラを持つのでしょう。
祝詞とはある約束をもってカミとヒトの間に置かれたのだと思います。
それは音霊であるので、声が重要なのに違いありません。
カミの願いをそのまんま人体を通して息に乗せて発する声、要は我の無い声、ということでしょう。(声の話は以前散々書かせていただきました。)
祝詞のことは詳しくありませんが、2008年は大祓祝詞にでてくる水の女神・瀬織津姫を筆頭とする祓いの大神が、まゆみさんのような一部のシャーマンや普通の人々の「良い願い」に応じて、今おおいにハタライテおられる気がしていますが・・・
■Commented by Yuri at 2008-10-01 16:47 x
「考察その4に入る前に」を読む前から昨日、考えていたことなのですが、まゆみさんはあまり神にお願いだの、祈願だの、と「神」を意識されてはないのではないだろうか、、と。スペーシアさんのコメントにあるような心配、まゆみさんはあまり意識されてないのかもしれません。
何度も何度も神に「お願い」を意識して行うなんて、、神様からすると、人類ってなんとわがままだと思うかも、と。確かに祝詞自体がすでに祈願であることには変わらないと思うのですが、そこに乗る心、思いが神にではなくて、天にお願いと言う気持ち?
きっと、まゆみさんのそういう、神を崇拝しない姿を、逆に神様は気に入っておられるのかもしれません。純粋に人の為に行う行為をいつも神様は見ておられて、結果的に願いをかなえてくれているのかな、と。
祝詞を使わず意識だけでもできるということ、まゆみさんの普段の人を思う気持ちや行動が、既に神様に通じておられるから結果で出て来るのだと思います。あまり沢山の方のコメントを読んでしまうと逆に知識が増えて、感覚が変わって行ってしまうと困ると思うので、遅くなりましたが書き込ませてもらいました。
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