保育園で教育勅語 その4
えりさんが書き写ししてくれました。ありがとうございます。
琉球新報 5月3日 25面
重なる記憶
体験者が見るいま
国の一大事
身も心も国のため・・・
疑問持たず戦場へ
「この子たちが大きくなった時、『国が大事な時』をどう捉えるのかね。こんな教育したら私たちと同じようになる」。木村ツルさん(89)は「教育勅語口語訳」を暗唱する子どもたちの映像を見ながら表情を曇らせた。
那覇の泊尋常小学校に通っていた80年前。儀式の時に校長先生が物々しく「教育勅語」を奉読するのを静かに聞いていた。
言葉が難しくて最初は理解できなかったが、音で覚えた。高学年になると木村さんも「教育勅語」を暗唱していた。意味が分からないながらも「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼すべし」の部分は特に頭に残った。
「ひとたび国家の一大事になれば、身も心もお国のためにささげることで、天皇陛下のご運勢が栄えるようにお助けしなければならない」という意味が分かるころには「国が大事な時に働かないといけない」という意識がすっかりたたき込まれていた。
「だから何の疑問も持たないで戦場に行くべきだと思ったのよ」。木村さんは1945年3月23日夜、ひめゆり学徒隊の一人として南風原町の沖縄陸軍病院に動員され、多くの友人を失った。その記憶を思い出すことは70年たった今でもつらく、苦しい。
木村さんが小学校に入学する前年の31年には満州事変が起き、日本は15年戦争に突入していた。
国は戦争をしていたが、子どもたちにとっては遠い話。縄跳び、ゴム段・・・。休み時間になると運動場に出て思いっ切り遊び、地元のバスが通るのを見て騒いだ。学校には無邪気な笑い声が響いていた。しかし、授業は軍国主義が色濃く影を落としていた。
「キグチコヘイハ テキノタマニアタリマシタガ シンデモラッパヲ ハナシマセンデシタ」。修身の教科書には日清戦争で突撃ラッパを吹いた木口小平が、死ぬまで天皇への忠義を尽くした美談が載っていた。
木村さんが小学校2年生だった33年には現在の天皇が生まれ、国全体が祝賀ムードに包まれた。各地でちょうちん行列が行われ、奉祝歌や和歌も作られた。木村さんも泊地域の旗行列に参加した。
天皇主権の大日本帝国憲法の下、天皇を敬い、天皇を中心とする国を守る意識は地域社会全体でつくられていった。
県立第一高等女学校に入学するころにはすっかり軍国少女になっていた。木村さんが当時思った「国の一大事」は「戦争」。「東洋平和のための聖戦」をしている国のために何ができるかを考え、戦場に進んで出て行った。
教育勅語で書かれた「国の一大事」を「災害」と解釈する人もいる。しかし木村さんは「災害にはみんな心を痛めるが、国全体が被災するわけではない。国全体が危険にさらされるのはやはり戦争」と確認するように話した。
(「重なる記憶」取材班)
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今日、「憲法がしゃべった。」という本を読みました。
今ある憲法は日本国憲法で、その前が「大日本帝国憲法」だったんですね。
またそれを明治時代に出来た憲法だから「明治憲法」と呼ぶ人もいると知りました。
勉強させていただいています。
| あすけえり | 2015/05/05 22:31 | URL |