PREV | PAGE-SELECT | NEXT




あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


≫ EDIT

世界を支配する王 その14


下にも記事が二つあります

http://pds.exblog.jp/pds/1/200805/20/62/b0086362_23384431.jpg',400,300,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>


『ダライ・ラマの闇』
http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm

4.逆転の法
の続きです(yasuさん翻訳)
内容がハードなので風を通しながらお読みください。


4.逆転の法
「facess誤りの祝宴」?

damtsig が西洋の精神的な実利主義と接触して、自衛戦術は様々な形をとるようになった。最も私の興味をそそったものは、私が「f ces誤りを満喫する」と呼んだものだ- それには2つのバリエーションであるように見える。私はVajradhatu Seminary?Chogyam Trungpa Rinpocheにおる3ヶ月の実習と黙想の勉強?でのVajrayanaへのイントロダクションを通して、最初のものに出会った。 私はChogyam Trungpa Rinpocheの死後、この黙想に出席し、そのときには、彼の息子(Sakyong Mipham Rinpoche)がそれを教えてくれた。夏が進むにつれ、教えはより冒険的なものになり、samayaについての推測も熱気を帯びていた。推測は、反復する変わったパターンを持っていた。この話題についての会話のある点で、人は必然的にこう言う、「samayaとは、Sakyongが排泄物を食べるように言ったなら、あなたはそうしなければならないということを意味すると聞いていた。」、それからの会話は、だれもが排泄物を食べるかどうかに移っていく。しばらくそれについて頭を悩ました後のこの問題に対するわたしの決定的な反応は次のようなものだ、「Sakyongがあなたに排泄物を食べるように求める事はがどれくらいありそうなことか?」それがどんなに不明確なものだったとしても、すべての議論は恐怖の戦術だった。このプロセスにおいてはsamayaが実際に何を意味するかを見つけ出すために自分自身を切断したりすることもあっった。このfaces Fallacyの上の過ちは、恐れにより生徒彼自身または彼女自身をdamtsigから遠ざけている。。

Vajrayana 密教(タントラ仏教)

このテーマの第2のバリエーションは、学生が誓いをたてるべきラーマの評判を落すために動いている。この良い例は、1993年、DharamsalaでのHHダライラマと西側の仏教の先生のとの間もたれた初の会議についてのレポートだった。会議セッションの一つで、ロバートサーマンが伝えるところでは、彼自身または彼女自身をバジュラマスターと呼ばれるもの 誰もが、排泄物とフォークの一皿で紹介されなければならないと言っている。 彼または彼女が食べることができないならば(一口での原則に基づき)、彼または彼女は詐欺とされた。バジュラマスターであることを否定しているにもかかわらず、明らかにバジュラマスターと考えられているラーマたちは、ロバートサーマンの豪華な食事の提供から免除されている。


屍姦

タントラ教に関する素晴らしいエッセイで、 メキシコのエッセイストで詩人のOctavio Pazはこう書いている、メキシコ人が持つ骨と頭蓋骨へのものすごい好みは、チベット人とネパール人の仏教儀式習慣を除けば、世界中の他ではどこにも見つからなかった。実際メキシコでは死体が人生や生命へのあざけりと捉えられていたが、タントラ教では「恐ろしく、みだらなもの」と捉えられていたという違いがある。(パス、1984、94ページ)死と性的関心のこの関係は、チベット芸術におけるポピュラーなライトモチーフだ。巻物では、タントラ教のカップルは頭蓋骨のボウルと肉切り包丁を身につけて、切断された頭のネックレスをつけ、性的結合の間、死体を踏みつけまわる。

一般的なチベット文化では、死体性愛の傾向への優位性はみあたらない。Fokke Sierksmaの書は、閉じこもったラマ僧の瞑想の核についての説明を含んでいる。それは人間の髪、骨や皮で飾られ、おそらくそれは死体から切り取られたものだった。いくつかの乾燥した女性の胸には糸がつけられていた。閉じこもった僧侶の食事のボウルは、通常の人間の頭蓋骨だけでなく、乾燥した女性の胸からも作られた。(Sierksma、1966、189ページ)

このような恐ろしい環境は、チベットの文化の重箱の隅をつつくようであって、いきすぎていて重要ではないと退けることができる。しかしこれらは、タントラ教と一般仏教の逆説的原理のもつ、意味深くシンボリックなつながりの上になり立っていて、すべての存在の流動性を認識するために、分解されていく死体の上での瞑想の実習が奨励される。初期仏教自体がもつの生命への侮り(それはニルヴァーナへの出入口に鍵をした)は、病的で、恐ろしく、肉体の腐敗に対する魅惑を理解すれば十分であり、これはラマ教を特徴づけている。 火葬場、納骨所、墓地、火葬用積み薪、墓慓、また、殺人が実行された場所、血なまぐさい戦いが行われた場所は、「逆転の法」により、特に一知恵配偶者とのタントラ儀式を行うのに適当な場所であると考えられる。


チベットの神聖な芸術

チベットはまた、恐ろしいものを大いに楽しむ。チベットの神殿の憤った神々の絵には、彼らの地獄の放射線が風景と天国へと運ばれ、全てのものはまさにその言葉が意味する静物画へと変容する。黒い旋風と緑がかった有毒な蒸気は、不毛な平野をどっと横切りる。稲妻の深く赤い鞭は夜をよぎり、魔女の乗った雲は黒い空全域で荒れ狂う。死体は至る所に散らばって、あらゆる種類の不快な獣の餌食となる。

チベット寺院の病的な文化を説明するために、オランダ人の文化心理学者 Fokke Sierksmaは、ジークムントフロイトの「死の願望」(タナトス)の概念に言及している。面白いことに、死体性愛の衝動の 構造を記述するとき、仏教への比較がこの有名な精神分析医の心に浮び、それはとりわけ「涅槃原理」であると考えている。これは休止、休息、解決、死に対する一般的な欲求として理解すべきで、すべての生命に生まれつきのものであると主張する。しかしこれに加えて、フロイトによると、死の願望も具体的なサディスティックでマゾヒスティックな構成要素を示している。両方の態度は反対の表現― 外へ向いたもの(サディズム)と―かたや内へむいたもの(マゾヒズム)である。


儀礼的殺害

外面化された死の願望で最も積極的な形は殺人である。それは、いまだタントラの企て中でも最終的なタブーの違反として残っている。神をしずめるための人々の儀式殺害は、多くの宗教で神聖な行為となっている。今日まだ役割を果たしているとしても、例えばインドタントラのカーリー・カルトのような過去に属すような儀式的生け贄を決してするべきでない。子供たちさえ、彼女の血の祭壇で、情け容赦のない女神に提供されている。(Time、1997年8月、18ページ)仏教徒、特にチベット人の、タントラ教徒の間では、こういった暴力行為はそれほど知られていない。したがって我々は、儀式殺人がカルト活動の一部であるかどうかの問題を、たいへん慎重に取り扱わなければならない。

上層のタントラ階級のすべてのテキストによれば、少なくとも言葉で殺人を要求していることは確かだ。Dhyani Buddha Akshobyaで避難を求める熟達者は、攻撃的殺害を含む憎しみのいろいろな形の上に瞑想を行う。 もちろん、この場合も、タブーの違反は、「逆転の法」に従ってその正反対(永遠の生命の達成)に変容する。このようにGuhyasamajaタントラは、「この秘密の稲妻をもってすべての感覚のある存在を殺さなければならない」と熟達者に求める(ウェイマン、1977、309ページ) そして? 教義によって ? これは、彼らを苦しみから解放するために起こるべきだと。

ヨギが、不快な犯罪を未来に犯すことを知っているその人をその世界から「解放する」ことは、尊敬すべき行為とさらにみなされる。このように、幼児期のパドマサンバワ(チベット仏教の創始者)は、その未来に非常に不快な行為を見た男の子を殺した。

しかしそれは純粋な同情や、タントラにおける殺人を乗り越えようと変形した意図ではなく、それが仏教の敵に向けられている時には特にそう言うことができる。たとえば、Hevajraタントラの儀式においては:「その意図を導師と完全な存在に告げた後、慈悲をもって、ブッダの教えや導師と仏像の中傷者の無信仰者であるものへの殺害の儀式を行いなさい。 人はそのような人を逆さ吊りにし、血を吐いて、震えて、髪を振り乱すところを視覚化して発散しなければならない。 彼の背中に刺さっている燃えている針を想像し、心臓の中の炎の 種-音節 の視覚化により彼は即座に死ぬ」(ファロー とメノン、1992、276ページ)。Guhyasamaja Tantra は ? ブードゥー教の魔術のように ? 敵のイメージをつくって、これらに致死的な痛手を負わせる方法を語っている、そしてそれは実際にそれは起きている:「人は、チョークまたは炭などで男性や女性を描き、斧を手にし、のどを切り裂く」(Gang、1988、225ページ)。別の時点で、敵は魔法にかけられるか、毒殺されるか、奴隷にされるか、麻痺している。これに対応する文はKalachakraタントラにも見つかるにちがいない。ここで熟達者は仏教の教えを犯した存在を殺すよう求められる。しかし、テキストはこれが同情を持って実行されることを求めている。(ダライラマXIV、1985、 349ページ)

魔術的手段による敵の破壊は、すべての熟達者にとっての基礎訓練の一部でもある。たとえば、 Hevajraタントラでは、敵の軍隊の全ての戦士たちの首を一太刀で切り落とす魔法のspellを学ぶ(ファローとメノン、1992、30ページ)。また敵の体が燃えあがり、蒸発するような熱を作りだす方法も見つける (ファローとメノン、1992、31ページ)。魔術的殺害の実行は、我々が示すように、 チベットの宗教的歴史においては間違いなくとるに足りないもので、むしろDalai Lamasの幅広いスケールでの政治にも取り入れられていた。

破壊的な怒りは、巨人、神または仏像を避けようとさえしない。対照的に、最も高い存在の破壊を通して、タントラ教徒は彼らの力を吸収し、第一の神になる。 ここでさえ事は時折サディスティックな展開をみせ、例えばGuhyasamajaタントラではブッダの殺人を要求される:「人は彼を血に浸し、水に浸し、 排泄物と尿に浸し、仰向けにし、踏み倒し、そしてWrathの国王を利用する。これが800回繰り替えされるならば、ブッダさえ崩壊することは確かだ」(Gang、1988、219ページ)。

効果的にブッダの殺人を行うため、Hieronymus Boschによると、ヨガ行者はそのグロテスクな出現がモデルとされてきた完全な修羅場を呼び出す:「彼は、 様々な、冷たく、恐ろしく、堅固なデーモンの怒りによる脅威を伝え、またこれによって、ダイヤモンド運搬人[最高位のブッダ]さえ死にいたる。彼は、フクロウや、カラスや、長いくちばしを持ったさかりのついたハゲワシによってによってどのように食べられるかも伝えている。このように、ブッダさえ確実に滅ぼされる。黒いヘビ(とても野蛮な) は恐ろしいものとされる…それは後足で立ち、額より高い。このヘビにかかればブッダさえ確実に滅ぼされる。それは10の方角全ての存在の危険と苦痛を敵に下し与える。これがベストであり、最高の種類の祈りとなる」(Gang、1988、230ページ)。これは、 以下の攻撃的マントラで強化される:「Om, throttle,throttle, stand, stand, bind, bind, slay, slay, burn, burn, bellow, bellow, blast, blast the leader of all adversity, prince of the great horde, bring the life to an end」(Gang、1988、230ページ)。

我々はオイディプス演劇の舞台の中で、Candamaharosanaタントラの一節が必要とする興味深い殺人ファンタジーにであう。熟達者は 彼のブッダの父Aksobhyaを剣によって圧倒しなければならず、彼の母Mamakiに殺した父の肉を与え食べさせ、その後彼女とまじわらなければならない(ジョージ、1974、59ページ;フィリオザ、1991、430ページ)。

仏教/タントラ教の殺害習慣の範囲内で、「7回生まれるもの」の故意の「自殺」は特別な意味をなす。我々はここで、7回生まれ変わった特別な特性を示す人にふれる。彼は良い感じの声で話し、美しい目で観察し、すばらしいにおいがし、7つの影を投げかける輝く体をもつ。 彼は決して怒らず、心は無限の同情で絶えず満たされている。そのような素晴らしい人の肉をたいらげることは、最も大きな魔術的な影響をもたらす。

それゆえに、タントラは花をもって「7回生まれるもの」崇拝しなければならず、彼にすべての苦しんでいる存在のために行動するよう頼まなければならない。そこで ? 関連したテキストがいうには ? 彼は、躊躇なく彼自身の生命を引き渡し、その後、 彼の肉から錠剤が作られそれを摂取すると、『空を歩く』力を与えられる。そのような錠剤は、今日まだ実際に出回っている。心臓の血は特に求められ、 また頭蓋骨も魔力をもつ(ファローと メノン、1992、 142ページ)。

人が「7回生まれる」者への自殺の求めを考えるとき、タントラシステムの冷笑的な構造が特に明白になってくる。世界のすべての現象の基盤となる物質の汚れのために、タントラ教がもはや持っていないその純粋さを示すために、彼の肉は求められる。 「7回生まれる」ものは、悪魔的な暗い力との関係を持った熟練者とは完全に正反対なのだ。罪なき人の至福の肉を通して変わるため、ヨギはこの者に故意に犠牲になるよう求める。そしてより高い存在はこの要請に応じ、その後神聖に使われるために喜んで彼の体を捧げる。

キリストの体と血が信者の間でわけられるという聖餐式のミステリーが、あまりに容易くこころに浮かんでくるので、タントラの「7回生まれる」というこの話は、キリスト教の最後の晩餐の仏教への言い換えだと言うのもありえないことではない。(タントラは4世紀はじめに現れた)しかし、このような自己犠牲の場面は、すでに大乗仏教で見られる。 the Sutra of Perfected Wisdom in Eight Thousand Versesの中には、 Bodhisattva Sadapraruditaが彼自身の体を彼に先生のためにいかに切断するかの記述がある。 最初に、彼は両腕を切り開き血が流れ出す。それから、彼は足の肉を切り取り、骨髄を捧げるために、最終的に彼自身の骨を折る。このような忘我の自己切断の行為に人がどんな意見を持とうと、大乗仏教では他を助ける事を望むものは倫理的に優れ、こうした行為は常に英雄的な行為だという。対照的に「7回生まれる」ものの冷笑的な犠牲は、タントラの利益に力を与えるための、立派で献身的な感傷の利用を表している。そのような基にある動機に直面して、チベット研究家David Snellgroveは、7回の化身者の犠牲への覚悟そのものを疑っている:「誰かが彼を探し、死ぬのを待ち、その過程を急がせたのだろうか?すべてのこれらのタントラは、第2の選択肢がありそうもないほど、多くの激しい儀式を行なって、その対象を殺してしまう... 」(スネルグローブ、1987、第1巻、161ページ)。 つづく
関連記事

| 未分類 | 23:46 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

>メキシコでは死体が人生や生命へのあざけりと捉えられていた

これは、「死を前にしての無能感、無価値感」からくるものなのでしょう。
だから、「生命へのあざけり」=怒りを感じてしまう。

>タントラ教では「恐ろしく、みだらなもの」

「死は、何もかも奪うものだ」という出発点から、女性蔑視の社会で、
煩悩を刺激し、高尚な精神を奪う魅惑的な(性的魅力にあふれた)女性と同等であるから、「みだらなもの」に行き着いていったような気がします。

>『空を歩く』力

水の上を歩いたり、不思議なことをするセロとか、マルコ・テンペストとか、超魔術系の?マジシャンがいますね。
さては、この錠剤を飲んだか??(笑)

オイディプス神話がタントラにも出てくるのですね。
タントラを心理学の視点で探ると、どうみえるのかと考えています。

| Snowy*Heart | 2008/05/22 00:12 | URL | ≫ EDIT

メキシコでは死体は美、タントラでは醜悪

メキシコでは今でもそうなんでしょうかね、アステカを連想しましたが。死んだもののほうが価値がある、美として捉えられているんでしょうか、死といえば、亡くなった人の顔ってきれいだと聞きました。

逆にタントラでは恐ろしくみだらなものとされ、だからこそ逆転の法則で利用されていた。

しかし、両者の立場は、相反するようだけど、実は共通するものがある、いわゆる二律背反的ですね。確かに心理学的に捉えると面白いかもです。

| mayufuru | 2008/05/22 12:54 | URL | ≫ EDIT















非公開コメント

TRACKBACK URL

https://cocorofeel.blog.fc2.com/tb.php/1450-202b2c73

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT