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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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200年前、西洋で「琉球」がブームになっていた。


バジル・ホールの訪琉に同行した英国海軍尉H・J・クリフォードの日記が
沖縄キリスト教学院大学の浜川仁さんによって発見され、
その翻訳本「クリフォード訪琉日記」が出版されることになり
その出版講演があったとの記事を今日の琉球新報朝刊で読みました。

これは是非伝えたいので書き写し、まとめてみます。

浜川仁さん「当時、琉球を訪れた英国人たちは、文明人が未開の地を見るまなざしで琉球を捉え、近代の美意識を通して琉球を賛美していた」

浜川さんによると、
1818年に出版されたバジル・ホールの
「朝鮮・琉球航海記」がベストセラーになり、
数ヶ国語にまたがって訳されるなど、
「琉球」が一種のブームになったそうです。

そして武器を持たない国として
ユートピアとして描かれた「琉球」

船や競走馬の名前、コミック漫画の作者名などにも
使われたそうです。

更に英国は文明/未開の二分法で琉球を見、
荒々しさ、野蛮なものを崇高なものとして美化していたと。

それが当時の時代の感性を捉え、
クリフォードの日記は人気を得たと。

琉球ブームは出版業界を不況から立ち直らせることに
貢献するほどだった
と、浜川さんは話されています。

「クリフォード訪琉日記」は日記なので「朝鮮・琉球航海記」より
生々しく琉球人との交流が描かれているそうです。

わたしも買おう。

バジル・ホールといえばだいぶ前に
『琉球新報』の副読誌「かふう」に載っていた
「バジル・ホールと法螺貝の琉球」
これが面白くてというか、
絶対沖縄のことが愛おしくなるので
読者の方にも読んでもらいたくて、しかし
書き写すわけにもいかず結局そのままになっていました。

「バジル・ホールと法螺貝の琉球」のpdfです。
これだけでも是非読んでみてください。

ここに武器を持たない琉球のことが書かれてます。
これこそ平和の象徴。凄いですよ。

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「バジル・ホールと法螺貝の琉球」
https://www.facebook.com/basil.hall.okinawa/photos/a.616566065029385.1073741826.615620738457251/993631517322836/?type=3&theater

バジル・ホールをちょっと検索してみました。

大琉球航海記 - 琉球大学附属図書館
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/digia/tenji/tenji2001/m04.html
『・・・大航海時代の16世紀から17世紀にかけて、琉球にもスペインやポルトガルなどの南蛮船の来航や漂着が見られ、ウイリアム・アダムス(三浦安針)の乗ったイギリス東インド会社の船が、平戸-シャム間の航海途上、那覇港に寄港した例がある。鎖国期に入ると、唐船・朝鮮船・オランダ船等が近海を航行、漂来した記事が琉球の正史『球陽』などに散見される。1797年、北太平洋を探検中の英艦プロビデンス号が宮古島沖で座礁し、島民の救助を受けて以来、イギリス船は数年おきに沖縄に来航するようになった。1816年には英国船アルセスト号とライラ号が那覇に来航し、約40日間にわたって滞在。その時の航海記が1817年にマクロードの『アルセスト号朝鮮大琉球探検記』、翌年1818年にバジル・ホールの『大琉球島探検航海記』として出版され、具体的な琉球の姿が広く西洋諸国に知られるようになった。 産業革命以降、欧米の東アジア進出が展開すると、琉球にもその波が押し寄せてきた。1844年3月にフランス・インドシナ艦隊のアウクメーヌ号が来航、琉球王府に和親・貿易・布教の3項目を要求した。また1853年5月26日にはペリーが来航し、翌年3月、浦賀で日米和親条約締結に成功し、同年7月には那覇で琉米修交条約を結んだ。・・・』

当時の沖縄の風景画がリンク先で見れます。
とっても素敵ですよ。

>イギリス船は数年おきに沖縄に来航するようになった。

沖縄はこのころから英国に狙われていたんでしょうね。

「バジル・ホール研究会」フェイスブック
https://ja-jp.facebook.com/basil.hall.okinawa

バジル・ホールってナポレオンに似てる?

チェンバレンは孫になるのかな?

バジル・ホール チェンバレン

1850 - 1935.2.15
英国の日本語学者,日本研究家。
元・東京帝国大学教授。
ポーツマス生まれ。
1873年来日し、海軍大学講師を経て、1886年東京帝国大学文学部教授となり、芳賀矢一、上田万年等を教えた。古典からアイヌ語、琉球語まで幅広く日本言語学を研究し、1911年に日本を去り、スイスのジュネーブ湖畔で余生を過ごした。自分の名を訳して王堂と号し「日本の事情」(1890年)などを著し、万葉集、古今集、謡曲などを英訳した。その他の著書に「琉球語の研究」等がある。また日本アルプスの早期登山のきっかけを作った。

祖父の時代から親子代々、英国海軍か。なんとも複雑な気分になりますね。




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| 沖縄 | 22:56 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT

琉球人気者(笑)
ペリーさんも琉球にはずいぶんご執心だったみたいだし。
ところで
チェンバレンって、
「ラフカディオ・ハーンははじめのうちこそ日本の神秘性を賛美していたが
最後はほとんど憎しみを抱いて帰国した。「二度と来ない」と言い残して」
というようなことを書いた人ではなかったでしたっけ(うろおぼえ)?
それは置いておいて、
(話は跳んで)
いま言いたいのは以下。
  ↓ ↓ ↓
>英国は文明/未開の二分法で琉球を見、
>荒々しさ、野蛮なものを崇高なものとして美化していたと。
オリエンタリズムね。
「>英国は」だし、
俗に「西洋」と呼ばれる地域の
基本的な考え方(原理)でもありますね。
そしてこれは
近代化~高度成長期にかけて
日本人の基本的な考え方として定着した。
なにげなく書いとくけど、
これ、とっても大切ね。
今の日本人は、
ぼくも含めて
「西洋的思考(─より正確に言えば影響の多くはアメリカ経由のもの)」で
多くの「ものごと」を考えているのね。
これが実は
(いまだに)
(太字で)(自己の)内部に軋轢(あつれき)をきたす、
「いち要因」になっているのである!
と、ぼくはずっと思っているのであ~る(笑)。
とはいえ、
いま(の日本)に生きている人間は
それが「あたりまえ」なのだから、
無理やり
「以前の日本人性を取り戻そう」とするのは、ね(笑)。
なにも
「西洋の考え方が悪い」といってるんじゃないですよ?
各々の
個々人の中での「食い合わせが悪い」
もしくは
まだ消化できてないんじゃないの(というか、飛びついて、あせって、「貪りすぎ」なのでは)?
という気がします。以上。
・・・ ・・ ・・・
と、
話は戻って、
「クリフォード訪琉日記」ですか。
ちょっとよさそう。
記憶のどこかにとどめておこう。

| うー | 2015/11/27 21:52 | URL | ≫ EDIT

「クリフォード訪琉日記」、たぶん絵もあると思うので一層楽しみです。
元々混血だから、「以前の日本人性」っていうのもよくわからないですね。

| まゆみ | 2015/11/28 10:03 | URL | ≫ EDIT

>元々混血だから、「以前の日本人性」っていうのもよくわからないですね。
ほんとにね(笑)
※ぼくの記述はあくまでも便宜上用いました(念のため、言っておきます)。
世界中の
どの場所に問わず
その土地土地の
気候や風土、
(それを自ずと規定している)地形にあった
生き方ができるといいです。
今は「民主化」とか
それに引き続く「自由経済」という看板を掲げた
へんてこな輩が
己と自然のあいだに(「個」と「社会」と「自然」の間に)
多く入り込みすぎています。

| うー | 2015/11/28 16:30 | URL | ≫ EDIT

世界中の気候や風土を満喫するにはなんと短い人生。最低でも千歳くらいないと。

| まゆみ | 2015/11/28 23:34 | URL | ≫ EDIT















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