みつめている主体 その17
「空像としての世界」の中のボームの対談の書き写しです。

見えるものと見えないもの - 時空を超えた全体の中の内蔵構造
ウェーバー「その要素を普通に人間が見るように顕現化するためには、人間が現在実際にある通りの構造のままでそれを把握できるような条件に、その要素を引き出さなくてはなりませんね。」
ボーム「その通りです。要素はわれわれの知覚が受容しうる形で顕前化してくるのです。普通包み込まれた秩序のすべてが、われわれに顕前化してくることはありえません。その一つの面が顕前化するのです。そこでこの包みこかれた秩序をその顕前化する面にもたらす時、知覚経験が成立します。しかしこれで顕前化するものだけが秩序の全体だということにはなりません。それはデカルト主義の考え方でしょう。デカルト主義では、秩序全体は少なくとも可能態では顕前化するものであり、ただわれわれは自前の能力で顕前化させる方法を知らないにすぎないのかもしれない、だから顕微鏡や望遠鏡や多種多様な道具が必要なのかもしれないと考えるのです。」
ウェーバー「それは延長したものですね。この延長したものがデカルト主義の考え方を支えていたのではないですか。(「わたし」と神を除いて)物質的に見ることができ、かつ延長したもののみが究極的に真の実在であるということをデカルトは仮定しています。」
ボーム「ええ、直接に見ることができなければ、もっと精妙な道具で見ることができる筈のものなのです。
ウェーバー「代用品を通してということですね。」
ボーム「そうです。しかし内蔵秩序では事情は違います。今までのインクの水滴はただのモデルです。ホログラムはもっと無限に精妙ですし、本当はインクの水滴などないわけです。ただ見えてくるのが包み込まれた秩序のほんの小さな部分でしかないことはいえます。だから顕前化しているものとそうでないものの区別を導入しなければならないのです。ホログラムはただ”包み込まれて”(フォールド・アップ)顕前化しなくなることもあれば、顕前化する秩序へと抜き出、また再びたたみ込まれることもあります。基本的な運動はこの包み込み(フォールディング)と抜き出し(アンフォールディング)です。それに対してデカルトの基本運動は時間の中で空間を横切ることであり、局所化された実体が一つの場所から別の場所へと動くのです。」
ウェーバー「デカルトなら空間を通ってと言うところでしょう。」
ボーム「その通りです。あるいは場が一つの場所から別の場所へ空間を通して力を伝播させるということかもしれません。場のモデルは粒子のモデルと同じくらいデカルト的です。事実デカルトは場のモデルを好みました。かれは世界について粒子のモデルでなく流体力学的な渦運動のモデルを考えていました。」
ウェーバー「そのことは現代科学における場にもいえましょうか。あるいはアインシュタインの場にも。」
ボーム「その通りです。アインシュタインの場はなおデカルト的です。」
ウェーバー「それはどうしてでしょう。」
ボーム「かれは局所連関、隣接連関に固執しているからです。」
ウェーバー「いわゆる遠隔作用もないわけですか。」
ボーム「ええ、それはアインシュタインの考えには全くありませんね。」
ウェーバー「そうですか。ではそれはニュートンの考えでしょうか。」
ボーム「ニュートンは遠隔作用が好きではなかった。それがなければならないとは言っていますが、それ抜きでやろうとした。ニュートン、アインシュタインそしてデカルトは皆この点で一致しています。その他のいりいろの点では随分違ってはいるでしょうが。」
ウェーバー「それでは内蔵秩序はこれら三人のモデルと精確にはどのように異なっていますか。」
ボーム「内蔵秩序は必ずしも全体を論じているだけではないのです。(それは場の理論でもやっていることです。)全体のもつ連結が時空的局所性とは何の関係もなく、それがむしろ全く違う特性、つまり包み込みに関係することも主張しているのです。」
ウェーバー「別の言葉でいえば、ここで重大なことはある場所を横切るとか通過しているのではない、ということですか。」
ボーム「古いモデルでは粒子がある場所を横切るか、力またはエネルギーの場がその場所を横切ることになるのです。だから内蔵秩序の観点からすれば、アインシュタインとニュートンの間には根本的な区別がないのです。確かに両者は違ってはいますが、両者とも内蔵秩序は違っている点では同じようなものです。」
ウェーバー「それでは時間があるいみでここでの鍵になる論点ではないのですか。」
ボーム「ええ、時間については後で考えるつもりです。時間と内蔵秩序にはめ込まなければいけませんが、ここではまだそれを話す段階になっていません。”内蔵変数”(インプリケーションパラメーター)、”内蔵度”(デグリー)という概念があります。n回転したインクの一滴は2n回転したものとは違うということを考えて下さい。その違いはデカルト主義の考え方では意味がありません。しかしここではそれは”根本的”なものです。われわれの主張では、時空上どれだけ離れて拡がっていても、内蔵度が全く同じものは結びついているからです。」
ウェーバー「もう少しご説明願えますか。」
ボーム「ええ、インクの滴のモデルに戻りましょう。このモデルでは、根本的な関係は内蔵された意味の度数だと主張するのです。一つの水滴をわれわれの知覚に抜き出すためにはn回の回転が必要であり、次の水滴のためにはn+1回必要だとしておきます。いま別の水滴があってそれは例えば更に百万回の回転が必要だとしますと、その水滴は最初の二つの水滴からはるかに遠くて結びつきが薄いということになります。だから結びついた二つの水滴とは内蔵構造で相互に近いものということになります。これがわれわれの見方です。だからすべての結びつきは全体の中にあると主張するわけです。特定の場所にあることは何の関係もありません。結びつきは、内蔵構造が常に全体のものであるというこの性質に関係しているのです。」
ウェーバー「それでは順序ということを見逃すことになりませんか。」
ボーム「いいえ、それは基本的でないことが分かるでしょう。さしあたり順序を時間の中に組み入れてありますが、この順序が現実にあるのは時間の内ではないのです。内蔵秩序は時間とは関係なくすべてが同時にあることが直ちに分かりますよ。順序とは必ずしも時間ではないのです。最も原初的な秩序は順序ですが、空間点での、あるいは時間上のある点での順序を導入しようとしているのではないのです。」
ウェーバー「なるほど。ただちょっと人間らしい形で質問してよろしいでしょうか。先生のお話から人は次のような光景を思い浮かべると思います。つまりインクの水滴はすべてそこにあり秩序の全体にわたっていると言われているようですが、いわば線上遠く彼方で待ち受けていてまだ抜き出されず包み込まれたままの水滴は、時空上で後方遠くにあるように聞こえます。」
ボーム「いえ、後方遠くにあるのではなく、すべてが一緒に現にあります。」
ウェーバー「しかしそれは、まだ出現しようとしていないでしょう。」
ボーム「それはそうですが、それはまた別の相違です。その水滴は後方遠くにあるわけではないが、それについて語ることができるには、更に相違ないし区別と秩序と関係を導入しなければなりません。鍵となる中心問題は、それが何であろうかということです。それは時空上の隣接した結びつきでしょうか、それとも別物でしょうか。別物だとわたしは言いたいのです。
そもそも何の秩序もなければ、語るべきことも見るべきこともその他なすべき一切がないことになります。これは内蔵秩序の大変原初的な例ですが、後でもっと複雑な例を考えることにしましょう。必ずしも順序による秩序が一つあるだけでなく、並列する秩序も多くありますし、縦横に交差する秩序、相互に浸透し合う秩序やそれ以外のものも数多くあるわけです。だから単純な順序という秩序を概念はほんの初めのものにすぎません。そこで今、わたしが提案している考え方を進めるために、インクの水滴の例に似た働きをするホログラムに戻ることにしましょう。」
つづく
次回は「全体運動 - 雲は風の運動を見えるものにする」
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| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 20:58 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑
まゆみさん、こんばんは。ボームとても面白いです。タイピング大変ですよね?いつもありがとうございます。次回も楽しみにしています。
| chiemi | 2009/03/29 01:19 | URL | ≫ EDIT