”わたし”という言葉は”神”(God)とほぼ同じことを意味している
昨日の続きです。
「ボームの思考論(デヴィッド・ボーム著)」より書き写しです。
ボーム「これについてはすでに何度も議論し、そして”わたし”という言葉それ自体は”神”(God)とほぼ同じことを意味していると言いました。それは万物の究極の源です。砂漠の中で燃えているしばに近づいて、しばの中から呼びかけてくる声に向かって名前を訊ねたモーセの物語の中で、その声は、自分は「有って有る者」( I Am That I Am)だと言いました。最初の‘I Am“は“彼“の個人名(ファーストネーム)で二番目のI Amは彼の姓(セカンドネーム)だったのです。後でその声は再び、”I Am”(わたしは有る)が彼の名前だと言いました。「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなた方の先祖の神が、わたしをあなた方のところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名は何というのですか』と私に聞くならば、なんと答えましょうか」とモーセが訊ねたとき、その声は「わたしは、有って有る者」だと言い、さらにモーセにこう命じています。「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。明らかに”I Am”(わたしは有る)は非常に神聖で、反復されたりすべきではない神の名前とみなされたのです。
それは一種の知覚ですーー“わたしは有る“(I am)という成句は、それだけで純粋な主体、純粋な源、一者、万物の源を表しており、“わたしに“(me)は客体を表しています。が、わたしたちは、“わたしは有る“(I am)を“わたしに“(me)と同一化または同等視し、「わたしはこれだ、わたしはそれだ、わたしは、有って有る者だ、わたしは“わたしに“(me)に帰せられるすべての事物だ。」と言うのです。が、“わたしは有る“を“わたしに“と同等視することから問題が生じてきます。なぜなら、“わたしに“は常に限られているからです。「ちっぽけなお前よ、自分が偉大である、偉大な“わたしは有る“者だと思い込むとは、自分を何様だと思っているのだ?」と彼らは言います。これに対して、“わたしは有る“者は、余計なものを何も付け加えられていないので、いかなる暗黙の制限も持っていません。」
つづく
「 I Am」に関しては知っている方も多いでしょう。
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| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 01:43 | comments:3 | trackbacks(-) | TOP↑
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| 名無しさん | 2020/07/07 03:13 | URL | ≫ EDIT