何度でもやってくる「みる」
記事の多くが未分類になっているので
できれば検索してみてください。
検索で出てきた過去記事を読むと
自分の書いたものなのに面白い。

Krishnamurti@krishnamurtibot
学ぶとは何ものにもとらわれることなくものを観察し、見ることである。もしも蓄積された知識からものを見れば、そのような”見”は限られたものであり、そこには何ひとつ新しいものはない。
///////
2007.02.25 世界の認識
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-417.html
2010.03.30 「所在」
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-5036.html
2012.05.21 「見る」って何?
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-8837.html
2012.08.17 「みる」ということ
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-9165.html
量子力学的に考えれば
観察する人によって結果は変わります。
観察者の存在なくては実験はできない。
だから真の客観は存在しない。
だけど・・・
赤ちゃんの透明な目は、どんな観察者よりも真の客観に近い。
(私たち大人がみえないものもみている。)
透明な心(目)を別の言葉で置き換えるなら”ただ見る”。
”ただ見る”とは、一切のジャッジをしないこと。
”みる”を五感で考えれば更に深くなる。
脈を診るとか、味をみるとか、これは大人の領域。
脈を診ることによって目では見えないものをみることができる。
前に「世界の認識」と題して触覚のことを書いた。
目、2つの眼球には盲点がある。
”真のみる”とは五感をフル動員しながら、
そこから離れることではないだろうか。
2014.01.13 「みる」ことは手放すこと
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-11502.html
湖がみえる場所に着いた時までは目を開けて普通にみていたのに
もっとよく見ようとしはじめると目を閉じてしまう。
何かをしっかり見ようとするときは
物理的な目ではない「メ」で見なさいということ、
光り輝くものをみようとするときはそれ自身が放つ光で
見えなくなるから別の「メ」で見なさい、
そう伝えているんでしょうか。
そして「第三者のメ」で客観的に自分をみることを。
1994年5月10日の朝に夢で
「みる」ことについての貴重な体験をしたことがあるけれど
今朝の夢はまた違う。
今朝、夢で教えられた「みる」ことの意味は、手放すことなのかも知れない。知識や思考パターンはもちろん、これが私だと思っている自分自身をもね。手放すと真にみえてくるのでしょう。
- 関連記事
-
- 昨日、沖縄に戻りました。
- 本日より木曜日までお休みです
- 何度でもやってくる「みる」
- バイオリニストの前田ただしさん
- JP La storia di Ilaria
| 日記 | 00:49 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑