『熟考』
熟考(consideration)
熟考しすぎると
チャンスが逃げる心配をするが
たいていは
取るに足らないアイデアが消滅するのである。
熟考したがらないのは
アイデアがより消滅する思考法に
耐えられないからである。
思考が他人のアイデアに依存しているかぎり
熟考は自己のテクノロジーに属する。
(続)熟考
熟考という
包括的な関係づけ(consideration)は
アイデアという投機(speculation)や
突然の妙案(brainstorm)とも異なる。
「無限の情報を内包する」現実を
獲得する唯一の方法は
熟考である。
私の一番苦手なことをデッサンで、北澤一伯さんから、学んでいます。
まさしく梶川さんの言われる「熟考」です。
北澤さんが毎回私に「伝えてくれること」と、梶川さんの「熟考」がそっくりに思えます。
さてそのデッサンですが、
前回告知したようにレオナルドの模写をしました。草花の習作(1483年ごろ)
今回も北澤さんの神の手が少し入っています。
アトリエに入るとこんな感じで準備されていて

机にも床にもたくさんの準備のあとが残っていて
写真に決して写ることのない、教えることの大変さを改めて痛感しました。
北澤さんが教えるためのエネルギーを凄く使っているのが毎回わかります。
北澤さんも毎回私と一緒に同じものを描くんですが、これって凄いことですよね。

500年以上前に描かれたものを模写するって
レオナルドからみるとどんなだろうと
不思議な想いでした。
<追記>
鉛筆と茶色の色鉛筆で描きました。
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模写って、お手本が目の前にあるのだから、誰がやっても同じものが描ける筈なんだが。
風景の写生にしたって、同じものを見ているのだから、同じものが描かれる筈なのに、
決して、同じ絵(画)にはならない。プロの画家達でさえ、同じ写生画をえがかない。
面白いですね
どうしてなのかな
写真にしたって、
同じ風景を写している筈なのに、
同じ写真は撮れない。
それは、同じタイミングで、一点のポジションには、一つのカメラしか占有できないからでしょう。
人が写生する時も、同じ風景だからといっても、描画のスキルとは関係なしに、見る視点が一人一人違うのだら、同じ写生画は決してうまれない。
| あかとんぼ | 2011/02/16 14:00 | URL | ≫ EDIT